ここは武里団地9街区

丙午生まれの昭和回想

相馬書道教室(6街区)

相馬書道教室で書いた書(Q街区所蔵)

展覧会出品時のタグ。「相馬書道教室」の判子が押されている。

 

 書道教室は2つ通いました。

 最初は白百合幼稚園に在園していた頃だと思います。同じ9―12号棟の2階だったと思います。
 先生は「小川さん」と言いました。私と同じ年齢の男の子と弟の兄弟がいました。そのお母さんが先生でした。どのくらい通ったのか覚えていません。この先生は確か生まれの干支が巳年だったはず。何かの話の中で先生ご本人が「蛇年」というフレーズを口にしたのを聞いた覚えがあります。

 この教室では書道関係で丸い銀のメダルをいただいた記憶があります。
 こうした書道教室通いは、私の亡き母親の強い意向が働いていました。母親は自身が子供の頃に書道を習いました。子供の頃に字を上手に書けるようになった方が大人になった時に恥をかかない、という考えだったのでしょう。
 小川さんの所を辞めた後、しばらくのブランクを経て大場小学校3年生の時、6―1号棟5階(確か一番端なので501か502?)にある相馬書道教室に通い始めました。相馬先生も女性の先生でした。いつも着物姿(たまに洋服)でおられ、色白で品のいい、凛としたたたずまいの方でした。
 教え方は私たちがお手本を臨書し、それを相馬先生の所に持って行き、あるいは相馬先生が見回り、朱墨で手直しをします。
 書道教室には幼馴染のK君(ブログ記事「級友になれなかった幼なじみ」のK君、下の名前はT)も通っていました。恐らく彼の紹介で私が通うようになったのだと思います。彼の方に一日の長があり、彼が金賞を取ると、私が銀賞という具合で一歩先んじてました。
 展覧会に出品するということになり、そのための作品に取り組みました。大場小4年生の時です。私は「苦心」(この作品はまだ保管してあります)という字を大きく墨書しました。
 作品は東京上野のいずれかの展覧会場(会場不明)に出品され、展示されました。これで2度目の出品だったかと思います。それより前に1度出品(何の文字を書いたのか忘れました)しています。私は母親と弟、K君とお母さんと一緒に(だと思う)会場へ見に行きました。
 この教室でも級と段位があり、私も下から次第に昇級して、最後は2段の上か2段の下のいずれかまで取りました。
 ここには大場小4年1組と5年1組の時に同じクラスだったTさん(下の名前はH)という女子も通ってました。大場小以外の子供もいたように思います。
 その中に「かをり」か「さをり」さんという名前の年上の女の子がいました。当時、平仮名の名前が珍しいと感じたから記憶に残っています。名前は漢字で書かれるものという子供の私の先入観が前提にあるわけです。おとなしい感じの女の子でした。

 子供の頃ことですから、墨書する以外はほかの子供たちと屈託なく話したり、わいわい賑やかにしていたように思います。
 ある日、雨の中を書道教室に行かねばならず、私は「休みたい」と母親に訴えました。しかし「行かなきゃダメだ」と促され、しぶしぶ傘をさして出かけました。ところが、教室に着くと相馬先生に「今日は教室はお休みです」と告げられました。
 また雨の中を帰りました。帰ると私は母親の前で泣き出しました。慌てた母親が教室に電話して、私が泣いて帰って来たことを告げ、今日は教室が臨時休業だったと知りました。その後のことは覚えていません。
 相馬書道教室ではNHKに2度(私の体験の範囲で)見学に行きました。1度目は当時放映していた人形劇「真田十勇士」(1975年4月7日~77年3月25日放映)の人形(辻村寿三郎作)が展示ケースに飾られたのを見た覚えがあります。この折に屋外で母親がガッツ石松さんに気付き、サインを求め、握手をしていただきました。
 2度目はテレビ番組の観客として見学しました。坂本九さんが司会を務める「日曜スタジオ」という番組です。これは他で書いた(ブログ記事「テレビに映る」)ので、ここでは割愛します。
 書道教室をどうして辞めることになったのか余り記憶にありません。相馬先生が書道教室を閉じたのか、あるいはこちらの都合で辞めたのか。

 いずれにせよ、遠く、懐かしい、いい思い出となっています。