ここは武里団地9街区

丙午生まれの昭和回想

お父さんたちの職業―5年1組①―

 武里団地に住んでいた子供たちのお父さんたちはどのような仕事をしていたのでしょうか。

 史料は私の手元にある春日部市立大場小学校5年1組(昭和52年度、担任関根岳是先生)の名簿(写真参照)に基づいています。

昭和52年度、大場小学校5年1組の名簿。保護者の職業は会社員が73%を占めました。NО21が私の欄です。左欄外の書き込みは恐らくPTA役員かと思います(Q街区所蔵)

 5年1組は児童数が計37人(男子22人、女子15人)でした。女子が意外と少ないのに驚かされます。イメージ的には男女各20人といった感じでしたが、学校が大分設立され、児童数が大分落ち着いた感じです。
 さて職業欄を見ると、会社員27人、会社役員2人、団体職員1人、履き物卸商1人、縫製業(自営)1人、新聞記者1人、非鉄金属業1人、出版業1人、旅客運送業1人、著述業1人となっています。

 「会社員」が全体の73%を占めており、圧倒的に多いことがわかります。「会社員」の比率の多さは、恐らく他のクラスにも当てはまり、延いては大場小学校全体、団地の子供が大勢通った大畑小、沼端小でも同様ではなかったのではないかと思われます。
 タイトルはジェンダーレスの昨今に反してあえて〝お父さん〟としましたが、実は会社員の数字の中に女性の方が1人いらっしゃいます。
 ちなみに私の亡き父は出版業(自営)でした。あまり売れなさそうな本を出していました。今でも手元に何冊か置いてありますが、ベストセラーとはほど遠いです。

父が手掛けた本の1冊です。発行は別の会社ですが、編集企画は父の会社名になっています。武里団地から東京豊島区の拠点へ通勤しました

 武里団地の玄関を入り、すぐ左手に四畳半の部屋があり、そこに小さい印刷機が置かれていました。
 印刷機は正面に○形のインクを薄く伸ばすところがあります。右手にレバーがあって、被印刷物を挟んで入れてレバーを手で上下させると、ローラーが○の上を滑って組んだ活字にインクを付け、対象物に文字が印刷されました。
 余白部分に住所・会社名を何十部、何百部と印刷をします。刷る度にインクが乾くまでの間、紙を間に挟み、その上に刷った冊子を積み重ねていきます。恐らく宛先によってでしょうが、紙で梱包し、ビニール紐で縛りました。子供の頃、否応もなく紙を挟む役を手伝わされました。私と母親で交代してやってました。
 父親の会社名は「経営教育研究所(前身は経営教育研究会)」と言いました。上記の本のほかに中谷進一著『印刷業会計』(昭和48年発行)という本も出版しました。また月刊誌『新しい経営と税務』という定期購読制の冊子も発行していました。

父が発行した月刊誌『新しい経営と税務』の表紙

 亡き母が一度だけ私に「もしかしたらビルの中に会社を構え、社員を何人か雇うことになるかもしれない」と話してくれたことがあります。

 しかし、それは実現しませんでした。父の仕事に対し、不払いの方もいたようであり、なかなか回収できないと、これも亡き母から聞いたことがあります。
 さてクラスメートたちのお父さんの職業に移ります。残念ながら大多数を占める「会社員」の中身がわかりません。
 会社員であるお父さんたちは恐らく春日部市内というより東京へ通勤した方が多かったものと思われます。せんげん台駅から電車に乗り、都心を目指したのでしょう。
 ちなみに私の父親は自家用車(トヨタカローラ)で東京方面へ通勤しました。本の奥付を見ると、東京豊島区南池袋に拠点があったようです。とは言え、自営業だから得意先を回ることが多かったでしょう。
 さて新聞記者の父を持ったT君は、他でも書きましたが、レインボーズという少年野球チームに所属する野球少年でした。4年1組(4年と5年はクラス替えなし)の時に彼が「えこひいきだ」と憤慨していたことを今も覚えていますが、これは担任の氏家千恵子先生に対する批判でした。
 今思うと、新聞記者の息子らしい憤慨だなと思います。彼の批判的言動(聞いたのは一度きりですが)はお父さんの影響かなと思ったりもします。
 団体職員の息子のI君はあまり話したことはありませんでしたが、背が高く、やや物静かな、目力のある男子でした。
 著述業の父親を持つ女子のTさんとは、やはり余り話したことはないのですが、外見からの印象ではややおっとりとした物静かな感じの子でした。
 
 これが私の転校先だった群馬県桐生市立西小学校だと、また事情が異なります。「自営業」が圧倒的に多く、いわば小なりと言えど、社長の息子と娘が多いわけです。「石を投げれば社長に当たる」のが機場(はたば)桐生の特色でした。

9―3がない―団地ミステリー

 9街区にはミステリーと言えばミステリーがあります。

 武里団地9街区には実は9―3がありませんでした。

 団地配置図をご参照ください。

武里団地9街区には9―3がない(中央集会所前〈2―3〉の武里団地紹介パネルより)

 確かにないのですが、実は後年になってから気づきました。9街区に住んでいた当時は全く気づきませんでした。実際に9―2の隣りがトンネル公園、第二白百合幼稚園、テニスコート、そして9―4になってしまいます。

 昨年11月に武里南公民館で講演を行うに当たり、この事を話題に出そうと思って、あらかじめ日本住宅公団の後身であるUR都市機構にメールで問い合わせました。
 10月20日付で以下の回答をいただきました。
 「いつも大変お世話になっております。この度のご質問についてお答えさせていただ きます。武里団地の9―2号棟と9―4号棟の間には、「第二白鳥幼稚園」があり、幼稚園建物はUR都市機構が所有する建物ではありませんが、住棟番号を決めるにあたっては当該幼稚園建物部分を9―3号棟とみなし、附番をしたことが推測されます。管理開始から長く経過しており、当時の正確な状況の把握は困難ですが、武里団地内には、同様に幼稚園建物を挟み住棟番号を飛ばして附番している住棟があることから、上記のとおりと推測されます。よろしくお願いいたします」
 回答をそのまま解釈すると、第二白鳥(白百合の誤記)幼稚園が9―3に相当するものと位置づけ、番号を飛ばしたということになります。
 ご回答くださり、改めて御礼申し上げます。恐らく若い世代の職員がご回答下さったものだと思われます。

 しかし、第二白百合幼稚園ができる前に住んでいた元住民としては余り納得のいく回答ではありませんでした。そのため、講演の中ではこの話題に触れませんでした。

 改めて考えると、第二白百合幼稚園ができる以前に、9―3を飛ばして附番していることから、もっと別の理由があったものと推察されます。

6―19に該当するふたば保育園

 6街区に6―19の号棟はありませんが、これは認定こども園ふたばが6―19と位置づけられています。もっとも別の配置図を見ると、ふたば保育園はもちろんあるのですが、6―19は欠番となっています。
 ちなみに2―1は大畑小学校と武里大枝公民館が該当したようです。武里幼稚園が2―2でしょうか。中央集会場(武里団地中央集会所)は2―3とされています。

2―1に該当する大畑小学校

建物左側側面に「2―3」と附番されている武里団地中央集会所(2013年9月19日、Q街区撮影)

 大畑小もふたば保育園も団地造成初期からあったと思うので、これは納得が行きます。しかし、まだできてもいない第二白百合幼稚園を9―3と位置づけたとはどうも思えません。

 結局、解答の出ないミステリーになってしまいました。

 その9街区も9―3どころか、全棟ないという状況になってしまいました。

 半永久的とまで行かずとも、少なくとも自分が生きている間は9街区があり続けるものと思い込んでいましたが、時の移ろいとは言え、無常ですね。

武里団地の雛(ひな)祭り

 

武里団地の雛祭り。右はお向かいの娘さん、左隣りが同学年の弟です。(昭和50年頃か、Q街区所蔵)

 3月3日の桃の節句は過ぎたのですが、雛祭りのことを書こうと思います。
 写真は武里団地9―12に住んでいた頃、お向かいの娘さんの雛祭りに御呼ばれされた際のものです。右から着物を着ている娘さん、左隣りが次弟、一番左に母が写っています。背景にケース入りの雛飾りが見えます。
 下の写真を見ると、昭和49年(1974)生まれの一番下の弟が写真に写り込んでいるので、恐らく昭和50年頃ではないかと思われます。

末弟が写り込んでいる写真。1歳だとして昭和50年頃の写真と推定できる

 昭和44年生まれの次弟は6歳(第二白百合幼稚園年長組)となります。お向かいの娘さんは次弟と同学年だったので5歳か6歳といったところ。
 背景の雛飾りは、過去の投稿「ベランダ」で団地サイズの鯉のぼりのことに触れたことがありますが、団地サイズのものがあったようです。写真の雛飾りはケース入り二段飾り。左男雛に右女雛、二段目に三人官女と五人囃子がいます。
 〝団地サイズ〟と書きましたが、雛飾りの生産者が果してどこまで団地を意識して生産したかわかりません。団地は一戸建て住宅のように広いスペースの部屋がいくつもあるわけではないので、さほど場所を取らないサイズの雛飾りが供えられました。

 この娘さんには私より年上のお姉さんがおり、そのお姉さんの幼少時に購入した雛飾りなのだろうと思われます。
 右側に桃の花ともう一種類の花が飾られ、こたつの上には雛祭りの御菓子が置かれています。雛あられ、菱餅金平糖などでしょうか。
 私は写真に写っていないので、私はこの時、お向かいには行っていないようです。
 恐らく私の記憶にあるのは、別の年の雛祭りの時なのでしょう。確か雛あられを頂きました。少し口に放り、甘いなと感じ、そんなにたくさんは頂かなかったことを覚えています。
 招かれて本人を目の前に「この度はおめでとうございます。お招きいただき、どうもありがとうございます」と口上を述べるのでしょうが、当時極度の恥ずかしがり屋の私が進んでそう言ったとは思えません。母親に促され、「おめでとう」ぐらいか、あるいは母親が言ったのだろうと思います。
 当時の私の、というか男の子の関心事を考えると、友人と外で遊ぶことなどに熱中していて、女の子のひな祭りにさほど関心がなかったというのも偽らぬ事実です。だからあまり長居しなかったような気もします。
 せっかくの祝いの席なのだから、親心ではありませんが、ここまで育った娘さんと家族が喜びそうな気の利いたことをもっと言ってあげられたらよかったのにと、今現在の私は後悔するばかりです。
 さて引っ越し先の群馬県桐生市では雛祭りに呼ばれる機会はもうありませんでした。こちらの雛祭りは4月3日に行われます。これは旧暦と関係しています。最初、そのことを知った時、不思議な感覚を抱いたことがありました。

おとうと、その2

 昭和44年(1969)11月生まれの弟はYと漢字2字(音は3字)を名付けられました。この名前について父親は「学者から取った」と話していました。

 私の名前Tは当時の男の子に付けられた割と普通にある名前でした。しかし、弟の名前、特に漢字の組み合わせに関しては名前としてあまり見たことがありません。

歩く弟。立って歩けるようになる1歳半だとして、昭和46年(1971)5月頃か。場所は2―9と2―4に挟まれた広場。後ろに化粧壁。後年、弟は自転車でこの壁に激突する。女の子たちが立つ場所は水を張る池だったように記憶している。この時は水を張っていない。私自身は池状態を見た記憶がない

 兄の目から見て、好字を使った縁起のいい名前だと思うのですが、弟は20代の頃、この名前を嫌がり、改名したいなどと言っていました。
 弟は、私と違って生粋の武里団地生まれの団地育ちとなります。過去の記事「弟自転車、壁激突」で紹介した弟です。

昭和46年頃(1971)の団地商店街。背景右に2―9、左に2―8が見える。写真の真ん中に母親と弟。その左に背を向けて走っている男の子がQ街区のように思われるが、全く記憶がない。子供の多いことがわかる一葉である。背景には蕎麦屋の元禄が写る

 お向かいのIさんの一番下の娘さん(名前がMさん)が弟と同学年でした。2人は9―12のすぐ目の前の第二白百合幼稚園に通園しました。

 昭和50年(1975)に子門真人の大ヒット曲「泳げたいやきくん」が流行しました。幼稚園の出しものか何かで使ったのだと思いますが、Iさんのおじさんが泳げたいやきくんの絵を画き、6歳の弟が確かIさんの娘さんと一緒に「まいにち、まいにち僕らは鉄板の…」と歌っていたことを覚えています。

9―12前の芝生で。弟㊨と、お向かいのIさんの娘さん。見た感じ3歳か4歳か。昭和47年(1972)か48年か。背景の9―13に布団と洗濯物がたくさん干してある。団地らしい風景である。左手に日産スカイライン(?)が駐車。その向こうに住宅が見える

 弟は「泳げたいやきくん」の1番から3番まで全て歌うことができたので、母親がとても喜び、そのことを私に話したことを覚えています。
 弟は昆虫好きでした。当時の武里団地(9街区は端っこなので)は一歩外に出ると、周辺にまだ自然(尤も人の手が入った田畑や森ですが)が多分に残されていました。弟は昆虫の名前をよく知っており、虫を見れば、即座に名前を言うことができました。
 しかし、考えてみると、こうした虫好きで虫の名前に詳しいタイプの男の子は武里団地には結構いたのかもしれません。弟は大場小学校で同級生だったО君に川釣り(元荒川)など野外活動的なことをいろいろ教わったと言っていましたから。
 団地周辺はそれほど生き物の棲む自然環境に恵まれていたと言えます。私自身の記憶ですが、せんげん堀には川面が真っ黒になるほどおたまじゃくしがうじゃうじゃいました。確か農道を歩いている時、食用ガエルを見かけたこともあります。
 その結果、蛙を捕食する蛇もいましたし(別稿「蛇ドロボー!」参照)、それから9―12の前の芝生には秋になるとトンボが飛んできました。つまり餌になる蚊が多く、夕闇の中で蚊柱ができるほどでした。
 そのО君のお兄さんが私とは4年と5年でクラスが一緒でした。しかし、私とО君のお兄さんとは親しくはなく、教室で言葉を交わしたこともありませんでした。弟同士は仲が良かったようです。人間関係の不思議さを思います。

おとうと、その1

 一番古い記憶について書いておきたいと思います。ほかにも古い記憶があるにはあるのですが、しっかりと年月がわかるのは以下の記憶です。
 昭和44年(1969)11月のことです。日にちまでは覚えていません。
 10月生まれの私は3歳の誕生日を迎えたばかりでした。午前中、9―12の横に駐車されている父親の車の助手席に乗せられました。仕事のため東京方面へ車で向かう父親がその途中で私を下ろしました。

 連れて行かれた所はせんげん堀北側にある桑島産婦人科医院の一室でした。父親は母親を見舞い、すぐに仕事へ行ってしまいました。
 部屋は確か白い壁の個室であり、母親が1人でベッドに寝ていました。11月8日に産まれる下の弟が胎内にいました。私は母親の側で、その日を過ごしました。
 私が覚えているのは父親に車で病院まで連れて行かれたことと、その時の母親との会話です。ベッドで一緒に横になりながら尋ねました。
 「赤ちゃんはどうやって産まれるの?」
 「お腹からポンと産まれるのよ」と母親は言いました。
 その言葉を聞いた私は幼心に(それではお腹が破けてしまう。何か変だな)と敢えて言葉にすれば、そう感じたことを覚えています。

恐らく母親が桑島産婦人科医院を退院して、武里団地9街区の我が家に戻ったばかり。3歳の私とみどりごの弟

 桑島産婦人科医院の近くには歯科医院もあったような気がします。幼い頃、そこに通院した微かな記憶があります。

 桑島産婦人科医院の南にせんげん堀があり、せんげん台方面へ橋を渡ると、向こうは駅のほか何もない芒々と寂しい場所でした。今でもそうですが、せんげん堀は道路から水面までが結構落差があり、水面を覗くと水鳥がいたような記憶があります。

 母親が後年、赤ん坊の弟(昭和49年生まれの一番下の弟か?)を背負って何かの用事でせんげん台駅東側方面へ自転車で行った折、そのアップダウンの途中で「転んじゃった」と話したのを記憶しています。確か土の小山があって、ろくに道がなかったような。

 その時の私は(赤ちゃんは大丈夫だったのか)と一瞬頭をよぎったことを覚えています。

次弟を抱く母親と三輪車に乗る私。乳母車を押している。撮影者は父親と思われる。場所は武里団地のいずれか。左上に7―1の外階段の踊り場(?)の外壁が見え、植栽の向こうにレンガ様の外壁が見える(場所の特定はコメント欄を参照のこと)

 この桑島産婦人科医院についてインターネットで調べると、現在は彩都レディースクリニックとなっていました。「旧桑島レディースクリニック」とあるから、ここが旧桑島産婦人科医院なのだと思われます。弟によると、「場所も変わってない」とのことでした。

 長い間、私は桑島産婦人科医院がせんげん台駅東側にあると勘違いしてましたが、どうも記憶違いでした。

 今は様子もすっかり変わってしまいましたが、武里団地を一歩出たせんげん台駅周辺はまだまだ遠くの向こうまで見通しの利く、何もない新開地という感じでした。

半世紀前の団地入居

 昭和38年(1963)に武里団地建設が着工され、昭和41年(1966)に入居が開始されます。
 この時点での入居希望者は昭和40年度の武里団地の第1次新規募集に応募する必要がありました。
 そして入居するためには高い倍率の抽選に当選しなければなりませんでした。
 以下は日本住宅公団東京・関東支所の「賃貸住宅入居申込案内―昭和40年度第5回新規募集」に基づくものです。
 この時の武里団地と共に募集がかけられた団地は以下の通りです。
 ⑴千草台団地(第1次)1455戸
 ⑵幡ヶ谷市街地住宅170戸
 ⑶田町駅前市街地住宅311戸
 ⑷武里団地2424戸
 ⑸川口本町市街地住宅78戸
 ⑹西川口市街地住宅153戸
 比べると武里団地の募集戸数が突出して多いことがわかります。この第1次募集の対象街区は1~4街区です。けやき通りから東側のエリアのみとなります。
 郵送申込期間は昭和41年2月1日(火)~同年2月5日(土)でした。「郵便局の消印のあるもののみ有効」という一言が添えられています。これは抽選の平等を期するためだったのでしょうか。
 入居を決める抽選は同年2月25日(金)午前10時から日本住宅公団九段事務所で公開抽選という形で行われました。

 この九段事務所は日本住宅公団東京・関東支所の場所と思われます。当時の住所が千代田区九段1―14、靖国神社正面鳥居前にありました。靖国神社前とは、なかなかしぶい場所にあったんですね。
 抽選には誰でも応募できるというものではなく、申込資格がありました。そのまま抜萃します。
 ①住宅に困窮していること。
 ②世帯向住宅については現に同居し、又は同居しようとする親族(公団の指定した入居可能日から1カ月以内に同居しようとする親族)があること。ただし小世帯向住宅は2人世帯(未就学児童のある場合3人世帯まで認めます)に限ります。
 (注)「親族とは」6親等内の血族、配偶者および3親等内の姻族をいい、事実上婚姻関係と同様な事情にある方を含みます。
 ③毎月の平均収入額が公団の定めた基準月収額以上あること。(注)「毎月の平均収入額」とは給与所得、不動産所得、事業所得等で継続的なものの過去一年間の合計額を、原則として12で除した額をいい、課税の対象となっているものに限ります。また同居される親族と収入を合算される方は、申込本人の収入が「住宅概要」欄記載の基準月収額の3分2(合算する場合の本人の収入欄の金額)以上あることが必要です。
 ④申込者が日本の国籍をもつていること。
 ⑤確実な連帯保証人があること。(都内または東京近郊に居住し、収入が公団の定めた5頁以降の住宅概要欄記載の「本人のみの場合」基準月収額以上の方であること)


 以上5カ条が申込資格となります。違反申込に対する措置というのも規定されています。1世帯で2通の申込をした場合や虚偽記載、他の団地名の記載などがあった場合です。当選したのに入居を辞退した場合はそれまでの落選回数が無効になりました。つまりは〝落選回数の多さ〟というものも配慮されていたということになりますね。

 次の武里団地の住宅概要の表を参照してください。 

武里団地第1次入居募集に記載の「住宅概要」。出典は表の最下段に記した

 まず申込区分ですが、片仮名は単に「ソタチツテトナニ」とあいうえお順に付けた名前です。「特」というのは落選回数15回以上に限るという意味です。「地元」は春日部市岩槻市越谷市白岡町、宮代町、杉戸町庄和町松伏村に昭和41年2月段階で3カ月以上住んでいる者です。

 「組合せ型」住宅は「タ」と「ナ」の申込区分がそれに当たり、同じ階段室に面して間取りの違った住宅が向き合っている形式のものです。「ト」と「ニ」は1階が店舗及び施設なので、2階以上が住宅になっています。これは2街区を指しています。募集時点で7街区はまだありませんでした。

 「チ」の間取りの「MF」とはメタルフォーム工法を意味しています。コンクリートを流し込む木製型枠のかわりに鋼製型枠をはめ込んだ新工法のようです。

 気になる基準月収額ですが、これは面積・間取りによって異なります。

 例えば、最上欄の面積45・02平方メートル、間取り2DK、6畳、4・5畳、台所兼食事室(556戸、家賃9300~9800円、共益費800円)の場合、基準月収額が本人のみ49000円、同居の親族の収入と合算する場合の本人収入が32000円というのが条件でした。これをクリアしないと応募できませんでした。
 他の違う面積・間取りの場合(計8種類ある)を見ると、本人のみの基準月収額は下は48000円、上は68000円です。

 8種類を平均すると、56375円となります。大体55000円前後の平均月収が必要であったということになります。昭和41年ですから、月収額も大体このぐらいだったわけであり、家賃が月収の5分の1程度ということになります。今ならば、若い世代が月給20万円として約4万円の家賃という感覚ですか。まあこのぐらいかなという家賃です。

 新規募集には次のようなことも記されています。

 ⑴団地内には4月中に開校予定の大畑小学校、幼稚園、保育園があり、中学校は武里中、東中、春日部中があること。

 ⑵診療所は5月1日に開設予定。

 ⑶武里駅―団地間にバスが運行される予定。

 ⑷武里団地のガスは関東ガスの供給区域のため、東京ガスよりカロリーが高く?、家庭用ガス器具は一部調整が必要。

 ⑸団地内に公団住宅を建設中なので騒音、ホコリ等で迷惑をかけること。

 ⑹駐車場は㈱団地サービスが経営する有料駐車場が設置される予定。

 両親と赤ん坊だった私は昭和43年の入居です。父は35歳、母は26歳、私は2歳でした。最新の生活様式が整えられた真新しい住居空間です。当時の若い夫婦世帯がこぞって応募したわけがわかります。

白黒テレビ、カラーテレビ

 

昭和41年(1966)10月頃、東京にて母と生後まもない私。右側にかろうじて白黒テレビが写る。このテレビは引っ越しにより武里団地に持ち込まれた

 私がまだ3、4歳の頃、即ち昭和44年(1969)、45年(1970)のテレビというと白黒テレビでした。当時の記憶を思い起こすと、細く伸びた4脚の上に頭でっかちな箱が乗っかているといったようなタイプの白黒テレビでした。

 細い脚に大きな箱ですから、少し押すとテレビがぐらつくんですね。劣化も加わり、団地の白黒テレビもかなりぐらぐらしました。母親から「動かさないで」と言われたことを覚えています。

昭和42年(1967)5月初旬、東京にて。生後7カ月の私の右背後に白黒テレビが写る。箱の下に伸びる脚の細いことがわかる

 チャンネル(取っ手の付いた円形のもの)をガチャッ、ガチャッと回すとテレビ局が切り替わります。

 テレビは出始めの頃、テレビジョンと呼んでいました。私が子供の頃は「テレビ」でしたが、確か年配の方で「テレビジョン」と呼んだ方がいらっしゃたような記憶があります。それがいつ、どこの記憶かはきれいさっぱりと忘れています。

 我が家もある時期、カラーテレビが導入されました。武里商店街の「エビナ電気」で買いました。時期は忘れてしまいました。買った時、すぐ下の弟がいたような気がするので、恐らく私が白百合幼稚園年長か大場小学校1年生ぐらいでしょうか。即ち昭和47年(1972)か48年(1973)頃になります。
 子供心に「エビナ電気」という店名を記憶しているのは、カラーテレビが我が家に入ったことがとてもインパクトのあったことだからだと思います。

 このエビナ電気ですが、『春日部商工名鑑』(春日部商工会議所、1996年)によると、正確には「株式会社 エビナ電気商会」といいます。うちが利用させていただいた武里店は春日部市大場1096―3にありました。エビナ電気商会は一ノ割店、豊春店と計3店舗ありました。経営者は海老名義雄さんと言います。

 当時のことですから、持ち帰りではありません。エビナ電気の男性の店員さんが車で届けてくださり、テレビを設置してくださいました。

 うちが購入したカラーテレビは白黒テレビと対照的に脚が太く、短いものでした。カラーテレビが届いた時はおぼろげですが、うれしかったことを覚えています。

 私の世代の人たち(50代以上)はテレビっ子世代なので、テレビ番組は夢中になって見ました。但し、父親のいる時はなかなか好きな番組が見られませんでした。ということはチャンネル権は父親が掌握していたことになります。父親はよくプロ野球を見ていました。そのせいか私は今もテレビでプロ野球を見ません。

 以前にも書いたように私自身はアニメやヒーローものを好みました。

 お笑い系だと「8時だよ全員集合」が著名ですが、もう1つ好きだったのが「笑って笑って60分」でした。これまたうろ覚えですが、確かジェリー藤尾さんが司会をし、ずうとるびが出ていました。コメディアンの伊東四朗小松政夫も出ていて、小松の親分さんは本当に面白かった。番組内で短い学園ドラマが放映されましたが、父親に「ドラマなんか見るな」と言われ、消されてしまった記憶があります。そのせいか、私は好んでドラマや映画を見るようになりました。

 日曜日には「家族対抗歌合戦」もやってました。これは、漫才師のてんわわんやが司会をしました。恐らく両親が好んで見ていたのでしょう。大人が見るものを子供も自然に見るようになります。

 時期を忘れましたが、大場小3、4年生の頃のある日、9―12―20■に住む幼なじみのK君と外にいると、そのK君を知るやはり9―12に住む年上のお姉さん(中学生くらい?)が現れ、「K君は『奥様は魔女』見てるの? 私も見てる」と話しました。それを聞き、私も「奥様は魔女」を見るようになりました。「奥様は魔女」は1964年から1972年にアメリカで制作されたコメディドラマです。ヒロインの「サマンサ」が夫を「ダーリン」と呼んだのが印象的でした。

 ウィキペディアによると、カラーテレビの普及率が白黒テレビを上回ったのが1973年ということです。うちがテレビを購入したのはやや早かったということになります。