武里団地に住んでいた子供たちのお父さんたちはどのような仕事をしていたのでしょうか。
史料は私の手元にある春日部市立大場小学校5年1組(昭和52年度、担任関根岳是先生)の名簿(写真参照)に基づいています。
5年1組は児童数が計37人(男子22人、女子15人)でした。女子が意外と少ないのに驚かされます。イメージ的には男女各20人といった感じでしたが、学校が大分設立され、児童数が大分落ち着いた感じです。
さて職業欄を見ると、会社員27人、会社役員2人、団体職員1人、履き物卸商1人、縫製業(自営)1人、新聞記者1人、非鉄金属業1人、出版業1人、旅客運送業1人、著述業1人となっています。
「会社員」が全体の73%を占めており、圧倒的に多いことがわかります。「会社員」の比率の多さは、恐らく他のクラスにも当てはまり、延いては大場小学校全体、団地の子供が大勢通った大畑小、沼端小でも同様ではなかったのではないかと思われます。
タイトルはジェンダーレスの昨今に反してあえて〝お父さん〟としましたが、実は会社員の数字の中に女性の方が1人いらっしゃいます。
ちなみに私の亡き父は出版業(自営)でした。あまり売れなさそうな本を出していました。今でも手元に何冊か置いてありますが、ベストセラーとはほど遠いです。
武里団地の玄関を入り、すぐ左手に四畳半の部屋があり、そこに小さい印刷機が置かれていました。
印刷機は正面に○形のインクを薄く伸ばすところがあります。右手にレバーがあって、被印刷物を挟んで入れてレバーを手で上下させると、ローラーが○の上を滑って組んだ活字にインクを付け、対象物に文字が印刷されました。
余白部分に住所・会社名を何十部、何百部と印刷をします。刷る度にインクが乾くまでの間、紙を間に挟み、その上に刷った冊子を積み重ねていきます。恐らく宛先によってでしょうが、紙で梱包し、ビニール紐で縛りました。子供の頃、否応もなく紙を挟む役を手伝わされました。私と母親で交代してやってました。
父親の会社名は「経営教育研究所(前身は経営教育研究会)」と言いました。上記の本のほかに中谷進一著『印刷業会計』(昭和48年発行)という本も出版しました。また月刊誌『新しい経営と税務』という定期購読制の冊子も発行していました。
亡き母が一度だけ私に「もしかしたらビルの中に会社を構え、社員を何人か雇うことになるかもしれない」と話してくれたことがあります。
しかし、それは実現しませんでした。父の仕事に対し、不払いの方もいたようであり、なかなか回収できないと、これも亡き母から聞いたことがあります。
さてクラスメートたちのお父さんの職業に移ります。残念ながら大多数を占める「会社員」の中身がわかりません。
会社員であるお父さんたちは恐らく春日部市内というより東京へ通勤した方が多かったものと思われます。せんげん台駅から電車に乗り、都心を目指したのでしょう。
ちなみに私の父親は自家用車(トヨタカローラ)で東京方面へ通勤しました。本の奥付を見ると、東京豊島区南池袋に拠点があったようです。とは言え、自営業だから得意先を回ることが多かったでしょう。
さて新聞記者の父を持ったT君は、他でも書きましたが、レインボーズという少年野球チームに所属する野球少年でした。4年1組(4年と5年はクラス替えなし)の時に彼が「えこひいきだ」と憤慨していたことを今も覚えていますが、これは担任の氏家千恵子先生に対する批判でした。
今思うと、新聞記者の息子らしい憤慨だなと思います。彼の批判的言動(聞いたのは一度きりですが)はお父さんの影響かなと思ったりもします。
団体職員の息子のI君はあまり話したことはありませんでしたが、背が高く、やや物静かな、目力のある男子でした。
著述業の父親を持つ女子のTさんとは、やはり余り話したことはないのですが、外見からの印象ではややおっとりとした物静かな感じの子でした。
これが私の転校先だった群馬県桐生市立西小学校だと、また事情が異なります。「自営業」が圧倒的に多く、いわば小なりと言えど、社長の息子と娘が多いわけです。「石を投げれば社長に当たる」のが機場(はたば)桐生の特色でした。