ここは武里団地9街区

丙午生まれの昭和回想

小径―思い出の道―

武里団地9―12と9―13の間にあった小径。思い出の道です。三輪車に乗るのがQ街区。その前を女の子が自転車に乗り、その左に男の子が歩いています。女の子は恐らく隣のIさん家のお姉さん。男の子はわかりません(昭和44年か45年頃、恐らくQ街区の母親が撮影)

 昭和43年から同52年7月末まで武里団地9―12に住んでいました。私が2歳から10歳9カ月までのわずかな間です。
 私の中で大きく占める思い出の1つに小径があります。
 武里団地の9―12と9―13の間には小径がありました。芝生のスペースが結構広く取られていたため、便宜のために小径が付けられたのでしょう。
 ちょうど第二白百合幼稚園の園舎角から西へと向かって伸びています。コンクリートで固められた白い道でした。
 私の手元のアルバムに私が3歳か4歳の頃の小径を撮影した古写真が残されています。確認すると、小径は真っすぐというわけではなく、やや北へ向かって弧を画いていることがわかりました。

三輪車に乗るQ街区。その背後に小径が北へ弧を画く

 記憶の中では単純に東西を走る真っすぐな道のイメージでしたが、違いました。記憶よりも確実な写真の方で確認すると一目瞭然、確かに弧を画いています。
 道幅1・5メートルくらいでしょうか。当時はコンクリート製の四角柱が両脇に並び、ロープが張ってありました。芝生の保護のために張ってあったのでしょう。
 しかし、このロープも子供たちの活発さには負けてしまいます。芝生は子供たちの格好の遊び場になりました。やがてロープはなくなりました。
 この小径は単に歩くための道というだけでなく、子供にとっては遊び場でもありました。カラー竹馬が盛んにテレビCMで流れていた頃、小径の上を竹馬で歩いて練習しました。最初は一番低いところに足台を設定し、ひょこひょこと歩きます。バランスを取ることに慣れてくると次第に高さを上げていきます。
 小径は大場小学校の児童の登下校に使われました。まだ沼端小学校ができる前の昭和50年までは6街区の子供たちも大場小に来ていましたから、ここを通過する児童も結構いたものと思います。第二白百合幼稚園とテニスコートの間の道を抜け、近隣公園を抜ければ6街区となります。

車道とは違って、小径は子供にとって安全な遊び場でもありました

 以前、コメントをいただいた方の中にはあゆみ幼稚園に通うのに小径を通ったという方もいました。
 9街区以外の方々にも結構、便利に使われていたわけですね。
 9街区が解体されると共に小径も跡形もなくなくなりました。

 しかし、私の記憶の中では、この小径はいつまでも思い出の道です。

子どもの頃の遊び

9―12の横から武里西小方面を見る。昭和48~52年7月まで左側の歩道を歩いて登下校した。当時は植栽ではなかった。右側手前から9―13、9―14、9―15が見える。かつては正面にことぶき商店があった(2013年9月19日、Q街区撮影)

 あれはいつの頃だか、春日部市立大場小学校2年生か3年生か。つまり昭和49年か50年辺りだったか。
 「ジャンケンポン」
 パーを出して勝ったら
 「パイナツプル」
 グーで勝ったら
 「グリコ」
 チョキで勝ったら
 「チヨコレイト」
 口ずさみながら、文字の数だけ歩いて進む。やり方を教わると、そうしながら友達と下校したことを覚えています。
 歩く歩数を稼ぐために小さい「ッ」「ョ」も数えました。
 誰とそんなことをしたのかも忘れてしまいました。男の子であろうとは思いますが、9街区の同じ方向に号棟のある同級生だったのだろうと思います。
 教室を出て階段を下りるところから、そんなことを始めました。
 「ジャンケンポン」「あいこでしょ」とやっているうちに一方的に勝ちか負けが続くと、相手との距離がどんどん離れていってしまいます。
 しばらくは大声を出して続けますが、やがて離れてしまって見えなくなると、自然消滅なのか、恐らくは途中でやめて帰ったのだろうと思います。
 大場小から我が家の9―12までは徒歩5分です。目と鼻の先です。
 この記憶はふと思い出しました。
 じゃんけんついでにじゃんけんの話です。じゃんけんする際に勝つための占いをしました。これは手の甲の皮(手首に近い箇所)に人差し指をぐっと付けて押し上げ皺を作ります。
 その形でグー、チョキ、パーのいずれかを出すか決めるというものですが、その占いをしてじゃんけんをしたら何度か勝ったことがありました。ただの偶然でしょうが、気持ちよかったものです。
 還暦を迎えた私ですが、試しに同じように皺を作ってみました。しかし、ただの皺にしか見えません。子供の頃は皺の微妙な形がグー、チョキ、パーの判断材料になったわけですから改めて大人と子供の目線は違うなのだなと思わされました。

 もう1つ占いの方法があります。両手をひねって組み合わせて1回転させてできた手の側面の形で何を出すか決めるという方法です。じゃんけんの相手がよくのぞいていました。私はこの方法はあまり使いませんでした。
 ちなみに転校先の群馬県桐生市立西小学校でのじゃんけんぽんは「おいやっち」「ちっけった」、あいこが続くと「たっ」「たっ」と繰り返しました。「おいやっち」を「おっちゃっち」という子もいました。武里団地とは全く違います。

 それから指相撲という遊びもしました。自分の右手と相手の右手を組ませて、親指を押さえて10秒数えて押さえ続けられると勝ちという遊びです。これも勝ちにこだわって早口で1~10を言ったり、10文字の言葉(例えば、だるまさんがころんだ)に置き換えて10数えたことにしたりとルールが変容しました。

 それから親指を押さえられても小指だけピンと伸ばすと「ロープ」ということになりました。押さえていた親指を一旦解放しなけれけばなりませんでした。
 指相撲なのにプロレスの要素が入り込んだわけです。なんだか釈然としませんでしたが、あまり抵抗もなくそうしたルールが受け入れられ、自分もロープをするようになりました。これはプロレスブームが背景にあったのでしょう。

 指つながりで影絵。手と指を使って犬の顔の形を作ったり、またカニの形、ワシの形にしたこともあります。恐らくこれは当時の少年誌の影響です。
 あやとりが流行った時期もありました。毛糸か何かを使って両手の指で張って相手と糸を交互に取り合います。「ドラえもん」に出てくるのび太の得意な遊びがあやとりとして描かれていますが、あやとりは女子の遊びというイメージがあります。
 しかし、なぜか男子もやっていました。これは何年生の頃だったのか。2年か3年生あたりかな。9―12の自宅でもあやとりをして、母親と糸を取り合った記憶がおぼろげにあります。
 「指切りげんまん嘘ついたら針千本のーます、指切った」は約束を交わす時に歌いました。自分の小指と相手の小指をクロスさせて歌い、歌い終わると指を切る(離す)わけです。これも小1か小2ぐらいの時だろうと思います。
 確か教室では「ずいずいずっころばし」をやっていた女子たちもいました。私も少しやったような記憶があります。

 以上の子供の遊びは恐らく全国的に行われていた遊びであり、大場小と武里団地ならではという地域性のようなものはないかと思われます。

 しかし、それでも大場小に通っていた頃、武里団地に住んでいた頃が懐かしくてしようがありません。無邪気だったあの日々がいとおしくてなりません。

珍しい苗字

 武里団地に住んでいた頃、珍しい苗字の方が何人かいて、記憶にとどめています。
 どこまで実名を出してしまっていいのかという問題はありますが、珍しい苗字ということで例外的に慎重に扱ってみようと思います。下の名前は出しません。
 まず「こうごう」さんという御宅が近所にありました。私の住んでいた9―12の同じ階段を共有していました。漢字はどういう漢字だったのか、うろ覚えですが、「光郷」さんだったかと思います。光郷さん宅にはお子さんがおられず、大人だけの世帯だったかと思います。つまり子供だった私との接点はありませんでした。
 「しゅっと」さんという子がクラスメートにいました。この苗字は音が特色的だったのでよく覚えています。女子児童です。顔立も印象的な子でした。
 漢字では「出雲」と書くのですが、知らなければ「しゅっと」と読めません。今、振り返ってもとても珍しい苗字だと思います。
 いつだか9―8か9―7辺りに遊びに行った折、「しゅっと」さんの姿を遠くに見かけたことがありました。
 この辺に住んでいたのか、あるいは彼女も遊びに来ていただけなのかわかりません。話すことはありませんでしたから。
 「しゅっと」さんはクラスの中でおしゃべりでにぎやかな目立った感じの子ではありませんでした。かといって特におとなしいというわけでもありません。芯の強そうな女の子でした。

2011年8月8日の武里団地9街区。見えているのは手前から9―11、9―10、9―9、9―8。右手に谷中小跡地(Q街区撮影)

 「くすおく」という苗字の子もいました。かなり珍しい苗字だと思います。やはり音が独特なので覚えています。漢字で「楠奥」。男の子でした。
 「くすおく」君も教室の中で際立って目立つというタイプではなく、無口だった私以上には普通に話すタイプの男の子でした。
 「しゅっと」さんも「くすおく」君も私が3年生の時の同級生です。向こうは私のことを覚えていないと思いますが、私の方ははっきりと覚えています。
 2年の時に仲のよかった「いちげ」君は子供の当時も耳慣れない感じはありました。しかし、子供ですからその違和感を心の中で明瞭化しませんし、口に出すこともありません。
 漢字では「市毛」君と書きます。大人になってから女優の「市毛良枝」さんをテレビで見るようになって、(同じ苗字だな)と時々思い出しました。
 「いちげ」君は穏やかな性格の男の子でした。2年生の時は大場小学校校庭の隅で一緒に蜂を捕まえたり、5年生の時はせんげん台駅前のだだっ広い造成地(まだ盛り土の凹凸がたくさんあって雑草が生えていた)で秘密基地を作ったりしました。
 かくいう私もありそうであまりない珍しい苗字の部類に入ります。栃木県栃木市の苗字ですが、私の曾祖母が群馬県に移住し、その子孫が桐生市近辺で少し増えたという程度の世帯数しかありません。父親が学校の関係で東京へ出て、東京出身の母と見合い結婚で結ばれ、抽選に当たり東京から武里団地に移住しました。私は武里団地に住んでいた頃、私は私の苗字を珍しい苗字だと多少は自覚していました。

 団地在住者の苗字は高橋、鈴木、齋藤、伊藤など日本で多数派の苗字の世帯が結構いたと思います。クラスメートにももちろんいました。例えば、高橋は4年1組の時は女子に2人いました。そのうち1人の子は同じ相馬書道教室(6―1の5階にあった)に通っていました。

 最後にもう1人。「ゆお」君という男の子が5年1組にいました。目立つ感じではなく、体格のいい、おとなしい感じの子でした。しゃべらないという点では私とどっこいどっこい、「ゆお」君の方がまだ話す方かな。漢字で「湯尾」君。子供の頃の顔ですが、今もよく覚えています。

 挙げた苗字に関しては、転校後の私の人生において出会うことはありませんでした。今も手許にある集合写真を眺めていると当時のことが懐かしく思い出されます。

 私もあと1カ月ほどで還暦。

 遠い遠いあの頃の武里団地の生活が懐かしく思い出されてなりません。

武里西口夏祭り2026―駅前の賑わい―

 かねてより行きたかった武里西口夏祭り。

 「春日部三大夏祭り 第51回武里西口夏祭り」が2026年7月25、26日の2日間にわたって武里駅西口前から商店街(平成通り)を会場として開催されました。交通規制がなされ、歩行者天国となった通りを、家族連れ、友人同士、カップルがそぞろ歩き、イベントを楽しみました。

 数か月前に私は次弟に誘われ、共に初日のみ祭り見物に出かけました。

 25日午後0時半、群馬県の自宅を出立。途中で次弟を拾い、東北道館林インターチェンジで高速に乗って南下。岩槻インターで下り、古利根川を渡ってすぐ右折、一路武里団地を目指しました。カスミの有料駐車場に車を止めます。

 次弟が「9街区跡地を見たい」というので歩いて9街区跡地を目指します。9ー12は私たちが昭和43~52年まで住んでいました。41年生まれの私は大場小学校5年生、44年生まれの弟は大場小2年の夏休みに転校しました。

 弟は9街区全体の跡地を初めて見ました。私が昨年9月に訪れた時と変わったことと言えば、跡地がある程度整地され、雑草が芝のように刈られていたこと。

 フェンスの向こうの夏の昼下がりに静まり返った跡地を見て、弟も思うところがあったようでした。

 時計公園ではブランコに乗り、当時のブランコの遊び方を話しました。普通に座ってこぐ以外に、腹ばいになってウルトラマンが空を飛ぶようにしてこいだり、また座ったままブランコごと回転させて(鎖がねじれる)それが自然にほどけるようにして回転させて遊んだこと、ブランコをこいで勢いを利用して前方にジャンプして遊んだこと。

 

時計公園のブランコ。弟が乗る。往時を振り返る

 確かブランコの隣りにはシーソーが2つありました。シーソーも普通に両端に2人が座ってギッコンバッタンと上下させる遊び方もありましたが、1人の時はそのシーソーの真ん中に立って重心を移動させて上下させたりもしたかと思います。

 トンネル公園も行きました。西側隅の古い棚は私たちが住んでいた昭和40年代からあるもので、小石まじりのコンクリ製の柱が時代を感じさせます。武里西小校庭の片隅にある大場小学校の校歌の石碑を拝見し、移動して工事フェンス内側の9―12のあった辺りを覗き見ました。その後、谷中小の校歌碑を見ました。公園にはバレーボールのネットが張ってあり、子供たちが数人でバレーに興じていました。

 1街区の中を通って祭り会場へ向かいました。団地棟を見ながら歩いていて前回来た時と目だって違ったことは、住民層の変化でした。黒人系の外国人(男女共に)がとても増えたなと感じました。

 祭り会場は商店街入り口に車両立入禁止のガードが立てられ、交通規制がなされ、歩行者天国状態となっていました。祭りは午後4時半に始まりました。武里駅西口前のイベント会場では子供たちによるダンスが披露されていました。

 昼抜きで空腹だったため屋台で焼きそばを購入し、路上で座って食べました。屋台の様子も昔の祭りの夜店(テント)とは違い、キッチンカーが目立ちました。

武里駅西口前のイベント会場。ダンス、阿波踊り、カーレースなど様々な催し物が披露された(2026年7月25日、Q街区撮影)

 次弟のリクエストで近くのニューパールレーンというボウリング場(ラコマートの2階にある)で1ゲームのみボウリングをしました。このボウリング場は結構古く、私たちが住んでいた昭和50年代にはあったかなと思います。

 その後、武里駅東口の方へ回り、西口に出て、商店街を通って阿波踊りを見に行きました。「南越谷きむら連」による阿波踊りです。その後、西口に戻り、シニアカーレース「大場ゴレンジャー」を拝見。シュールな出し物に頭が追い付いて行けず、ただあっけに取られてしばし眺めていました。

シニアカーレース「大場ゴレンジャー」。うーん、一体これは…

 次弟の提案で武里駅から電車でせんげん台駅に行き、駅前のマクドナルドで夕食を取りました。私1人であったら、こうした動きは取らない(発想がない)のですが、弟の提案に任せるまま移動しました。

 その後、せんげん台駅から徒歩で武里駅へ向かいました。けやき通りをてくてく歩きます。5街区を左に、4街区を右に見て、通りの左側を進みます。やがて5街区が6街区となり、中央の交差点に出ました。けやき通りの右側を歩いて再び祭り会場に到着。

武里駅の階段を上がったところから俯瞰して撮影。西日が強かった

壁画の向こう側が武里駅西口

阿波踊り。南越谷きむら連による

輪投げに興じる子供たち。祭り会場に戻ると、辺りは薄暗くなり、祭りらしい雰囲気に

人数も大分増えてきた。金子商事の看板は変わらぬ風景

 弟が「ラコマートの値引き商品が気になる」というので、ラコマートに入り、買い物に付き合いました。ラコマート斜め前のメロンパン屋さんでメロンパンを買いたかったのですが、すでにほとんど売り切れ。あきらめました。

 再びカスミに戻る途中、ついに右足がつりそうになりました。結構歩いたし、水分が足りないのだろうとカスミ前の珈琲館で落ち着いてから帰路に着きました。

 武里西口夏祭りを見ることができたのはいい経験でした。だいぶ様子がわかったので、また機会があれば、来てみようかと思いました。

 今年で開催第51回を数える武里西口夏祭りですが、今年還暦を迎える私が武里団地に住んでいた昭和50年代にはもう行われていたことになります。当時の武里駅前の祭りに関しては記憶がありません。恐らく機会がなく、出かけなかったのか。当時は団地祭りが盛大に行われていたので、そちらの方が強く記憶に残っています。

1年9組ウンチ事件

 今でも臭いの記憶と共に覚えていることがあります。春日部市立大場小学校1年9組の時、ある日の授業時間のことでした。
 何やら嗅いだことのあるようなヘンな臭いが
 プァ~ン
と漂ってきました。クンクン。担任の岡安美代子先生の授業よりも鼻の方に集中が行ってしまいました。
 ほどなくチャイムが鳴って授業が終わり、私は座席を立ち上がって机と机の間の通路を通って黒板のある前の方に向かいました。
 その時です。
 グニャ
 という何か変なものを踏んだような感触が足裏の感覚を通して脳に伝わりました。
少し歩くと、何やら変な茶色いものが歩く度に床に付けられていきます。
 やがてクラスの男の子の1人が
 「誰かがウンチもらした」
 と声を上げました。
 それから犯人捜しが始まりました。男子児童が1人ずつお尻の臭いをかぐ動作が私の視野に入りました。その対象はほぼ男の子に対してでした。

 臭わないと「違う」と無罪放免。

 やがて私の尻もかがれました。私はしてないのだから安心していました。

 ところが、
 「くさいっ」
 と声をあげられてしまいました。何人かの男子がかぎに来て「くさいっ」。そんなはずはないのに、なぜか犯人にされてしまいました。
 もちろん冤罪だったので私も「違うよ、ぼくじゃないよ」ぐらいは小声で言ったかもしれません。しかし、一旦犯人にされてしまうとクラスの中の群集心理が働き、私は〝もらした〟ということにされてしまいました。
 当時の私はおとなしい子供でしたから、もう言われるがまま。私はおねしょ(寝小便)も早いうちになくなり、大便も学校のトイレでするのが抵抗があってできないほど割と潔癖でしたから、もらすなんてあろうはずがありません。
 ウンが悪いと言えば、それまでですが、冤罪にも関わらず同級生たちにもらしたと言われるのでいたたまれなかったことを覚えてます。いくらなんでももらすぐらいだったらトイレに駆け込んだでしょう。
 そこはやはり冤罪は冤罪。私はもらしてないのですから、やがてもれた状態のままの真犯人が見つかるのも時間の問題でした。
 私の座席のすぐ前に座っているМ君という男の子がもらしたのでした。ブツが半ズボンの脇から漏れ出て床にポタリ。彼はずっと黙っていたわけです。冤罪ならぬウン罪ですね。
 やがてクラスのみんなもМ君がしたという認識に変わり、私は晴れて無罪となりました。今の私だったら「謝れ」と抗議したでしょうが、当時はおとなしすぎました。
 教室に担任の岡安美代子先生が職員室から来ました。

 クラスの誰かが知らせに行ったのでしょう。その時の岡安先生の(困ったな)というような微妙な表情が若干見え隠れしたことを今でも覚えています。

 1年9組の時の思い出は正直少ないです。2年2組の時の思い出もあまり記憶に残っていません。前にも書きましたが、1年9組のほんの一時期ですが、毎朝登校すると、8組の男子3人がズボンのベルトを鞭替わりにして床をパシパシ叩いて攻め込んできたことがありましたが、これは強烈な印象を伴って記憶されたわけです。

 だからウンチ事件も私には強烈な印象だったのでしょう。

 臭いもさることながら、犯人捜しの尻かぎの風景、冤罪被害に遭ったこと、岡安先生の表情などなど、さまざまな記憶の因子が積み重なって、7歳の記憶が還暦の60歳(まだ59歳ですが)に至るまで刻まれ続けたのだと思われます。

 1年9組ウンチ事件は言うなれば子供の粗相のハナシですから、致し方ないと言えば致し方ないのですが、やはりウンチはトイレでした方がいいですね。

 しかし、これが当時は結構な問題でした。私は、学校のトイレで大便をできない、したくないと抵抗を感じる児童・生徒の1人でした。

 こうした児童・生徒は今もいるような気がします。これは小学校でトイレの大便の個室に入るところを見られると、からかわれ、はやされる対象にならないかという不安・心配もありました。周りの目の問題です。

 M君ももしかしたらそうだったのかな。授業中でしたし、挙手してトイレに行けたとしても長い時間かかれば、周りから「ウンチしたんだろう」と言われたかもしれません。

 私はこの年齢になっても家以外の外のトイレで大をすることにやや抵抗がありますが、この時の幼少心理が今もって尾を引きずっているからでしょう。特に子供の時は恥ずかしさが極度に付いて回りますから、余計できませんでした。

 その後、1年9組では同様の事件は二度と起こりませんでした。

クロユリ団地ロケ地―都営緑ヶ丘団地仙川アパート―

 

仙川アパートの貯水塔。足場が組まれて覆われている。手前の案内図は映画「クロユリ団地」にも同様のものが出てきた

仙川アパートの案内図

 URまちとくらしのミュージアムを見学した後、かねてから訪れたかった都営緑ヶ丘団地仙川アパートに行ってきました。
 山手線新宿駅で乗り換え、京王線仙川駅で下車、歩いて10分ほどで目的地です。
 インターネットで下調べしておいたのでわかってはいたのですが、シンボリックな貯水塔はすでに取り壊しのための足場が組まれて覆われ、全容が見えません。
 わかってはいたのですが、改めて残念に思った次第です。
 私が仙川アパートを訪れたいと思った動機は、映画「クロユリ団地」(2013年公開、中田秀夫監督、前田敦子主演)の舞台になったところだからです。「クロユリ団地」は映画版につながるドラマ編も制作されました。こちらも視聴させていただきました。
 映画冒頭シーンに仙川アパートが貯水塔と共に映し出されます。またロケ地にも使われました。

解体を待つばかりの仙川アパート。9号棟、向こうに8号棟

 もともとホラー映画好きではあるのですが、「クロユリ団地」が映画作品として評価がどうこうというよりも団地を舞台にした作品という点で強い興味がありました。特に元団地住人として、現在の団地がなぜホラーの舞台になってしまうのか、少し違和感もありましたが、実際に訪れて納得せざるを得ませんでした。
 仙川アパートは建て替えが進み、新しい高層住棟がどんどん建設されています。古い住棟を壊したら、新しい住棟に置き換わっています。

古びた壁が独特の雰囲気を漂わせる仙川アパートの住棟

ホラー映画の舞台となった住棟だが、かつてはあこがれの住まいだった

映画「クロユリ団地」の主人公が住んでいたという設定の13号棟はすでにない

生協の入る1階テナントの25号棟

25号棟1階は生協が営業している。両隣はシャッターが閉まっていた

生協などの入る25号棟の反対側

25号棟の1階テナント部分

 残されている古い住棟も取り壊されるのを待つばかりであり、工事用のフェンスに周囲をぐるりと囲まれて、中に入れませんでした。
 古い住棟はホラー映画のロケに使われたぐらいですから独特の雰囲気を漂わせています。壁の黒ずんだ汚れのせいでしょうか。
 唯一、1階がテナントになっている住棟だけはまだ近くで見ることができました。テナントは生協が入って今も営業しています。
 仙川アパートを堪能した後、帰路に着くべく仙川駅に向かいました。 

新しい仙川アパートの住棟。建て替えが進む

仙川アパート入り口を背に撮影。私が訪れた折は4月28日、川面の上に小さい鯉のぼりがたくさん泳いでいた

 

自身を探る―URまちとくらしのミュージアム、その8―

 URまちとくらしのミュージアムは、ミュージアム棟と旧赤羽台団地の板状階段室1棟(41号棟)及びポイントハウス(スターハウス)3棟(42~44号棟)から構成されています。団地としては初の登録有形文化財(2019年登録)です。

 館内ではガイドさんが懇切丁寧に説明してくださり、また復元された部屋を見ることで、自分なりに武里団地と比較したり、自分自身の心にある「文化」についてあれやこれや考えました。

URまちとくらしのミュージアム正面入り口(Q街区撮影、以下同じ)

URまちとくらしのミュージアムとヌーベル赤羽の案内図

URまちとくらしのミュージアム㊧と赤羽台団地の板状階段室の棟

 ミュージアム棟を出た後、周辺を少し歩きました。ヌーベルバーグ赤羽は隣接する住棟だけを拝見しました。

 あたかも近未来的な高層のデザイナーズマンションのような雰囲気です。

 団地のエリア内はかなりの緑化が図られ、住棟以外の箇所は芝生、公園には植栽が植わり、人工の自然がありました。

 昭和40年代の武里団地は一歩外へ出ると、自然豊かな農村風景が広がっていました。もともと農村の中に建てられた団地だから、田んぼ、農家、森、川、農業用水(千間堀など)、足を延ばすと古利根川、元荒川が流れ、自然(人の手が入っているけど)豊かなところでした。
 大都市郊外にある団地は内と外に緑があふれていました。とは言え、光化学スモッグで校舎の外に出られない時もあり、それは高度成長期の“歪み”でもありました。

板状階段室の棟

板状階段室の団地棟の南側。ミュージアム中から撮影

板状階段室の前に置かれる

板状階段室住棟のベランダ側

上から見ると「Y」字形に見えるスターハウス

現代アート風

スターハウス正面

スターハウス

スターハウスが3棟残される

現代アート風のモデュール遊具。遊び心に満ちている

現代の赤羽台団地はヌーベル赤羽という

 冒頭の私の中の「文化」の話に触れて終わりにします。

 私は自分の中にある違和感の正体を知りたいという気持ちがずっとありました。それは日本の伝統文化との距離の遠さです。

 この前、動画サイトで映画「国宝」を鑑賞しました。「国宝」の時代は昭和40年代以降ですが、まさに自分の幼少年・青年期と重なります。にも関わらず、私は幼少年期に歌舞伎を見たことがありませんでした。

 ミュージアムの展示空間と展示物を通して感性のルーツみたいなものを感じ取れたように思いました。

 豊潤会アパートメント(和洋折衷的)から戦後の日本住宅公団による集合住宅の進化の流れの中で、生活様式は「和」の要素から「洋」の要素へと次第に移り変わりました。

 私の住んでいた武里団地の部屋には床の間がありませんでした。

 武里団地で茶道や生け花をなさっていた方は一体どうしていたのか疑問です。

 団地には神社がなく、昭和時代の団地祭りは何の神様の“喜ばし”かわかりません。

 第二次世界大戦後にアメリカが日本に与えた影響は大きいものがありました。

 チェッカーズのヒット曲「Song for U.S.A」(1986年)に感じた疑問は今も胸の中にあります。

 また、なぜ“日本”アカデミー賞なのか?

 どうして誰も何も疑問に思わないことを疑問に思いながら、少しぶらぶらして赤羽駅へ戻りました。その足で都営緑ヶ丘団地仙川アパートへ向かいました。