ここは武里団地9街区

丙午生まれの昭和回想

増える児童数―大場小学校の歴史②―

 今回は増える児童数のことをご紹介したいと思います。その当時の武里団地がいかに子供の数が多かったか、大場小を例に見て行きます。
 武里団地の元住民のみなさん、古くから住まわれている現住民のみなさんは、昔の武里団地には至る所に子供たちの遊ぶ姿があったことをご記憶されていらっしゃるだろうと思います。
 『学校要覧 平成14年度 小学校1』(埼玉県春日部市編・発行)に基づいて上記のグラフをつくってみました。
 私が入学した昭和48年4月の段階で大場小の全校児童数は1488人いました。学級数が37学級。6学年で割れば、学年平均6クラス。1488人を37学級で割ると40人学級ということになります。私は1年9組(最後の組)でした。
 「学校の沿革」と題した年表を繰ると、昭和46年3月31日に第3校舎第1期工事落成とあります。この工事で9教室が増築されたようです。
 さらに同47年5月10日にも校舎増築がなされ、5教室が完成しています。同48年5月1日に6教室、またまた同49年7月31日にも3教室が完成します。
 この教室の〝増築騒ぎ〟には全く驚くばかりです。昭和46年から49年までの4年間に計23教室も増えているのですから。
 その背景には昭和49年に最多を記録した1681人(40学級)という在校児童数のあったことは考える余地もありません。私は2年2組でしたが、確か8組まであったようにうっすらと記憶しています。なぜ1年生の段階から1クラス減ったのか理由がわかりませんが、当時もそのことがボンヤリと頭に引っかかっていました。
 昭和51年に児童数が1010人にガタンと激減します。これは、この時から6街区の子供たち642人が一斉に新設の沼端小学校へ通学するようになったからです。私が3年5組から4年1組に上がった時でした。片思いだった(もう少し正確に表現すると、かわいらしいと思うようになり、片思いになりかけていた)Iさんも沼端小へ行ってしまいました。明るい感じの聡明な女の子でした。

 それはともかく沼端小がなかったら、相変わらず1652人もの児童が大場小校舎内にいたことになります。それが沼端小へ移されたことによって、教職員の数も昭和49年の50人から同51年の40人へ一気に減ります。

 昭和52年の980人から昭和53年の1238人の増加は学区変更により備後小から246人が転入したことによるものです。それ以降は漸減していきます。
 大場小が一時期だけでもマンモス校だったことがわかります。お察しのように子供たちの人口増加の背景には武里団地の造成と団地効果による出生率の増加があります。
 昭和41年に武里団地1~4街区の入居開始がなされ、同43年に9街区までの入居が終り、全6119戸の巨大な町が突如出現しました。

 子供が生まれ、その数年後には保育園・幼稚園が足りない、7年後には学校が足らなくなるのは必定です。児童数の急増に対応し、とにかく学校をつくらないといけないということで、当時の市政はてんてこ舞いだったようです。