ここは武里団地9街区

丙午生まれの昭和回想

沼端小学校、慌ただしく開校―武里団地着工60周年記念事業⑥ 講演会―

 沼端小学校のことを紹介したいと思います。

 恥ずかしい話ですが、実は沼端小には行ったことがありません。武里団地に住んでいた当時、沼端小は遠いというイメージが強くあり、ついに行かず仕舞いでした。
 先の講演で武里団地に行った際、沼端小の場所へ行きましたが、校舎はすでに取り壊されてありませんでした。
 以下、春日部市『学校要覧 平成14年度 小学校2』に基づいて記します。
 沼端小は昭和50年(1975)3月24日、春日部市大場124番地1で着工されました。1年後の昭和51年(1976)4月1日に校舎が竣工。学区は武里団地6街区、大場新田、増田新田です。大場小に通学していた6街区の児童804人と武里小の11人の計815人が沼端小へ移りました。
 私個人の体験の中では3年生の時のクラスメイトが4年生に進級する際に6街区の子供たちが一斉に沼端小へ通うようになりました。
 その時の私は「沼端小は遠い」と聞いていたので(6街区から通うのは大変だな)と思ったことを覚えています。
 沼端小は校舎が完成して一週間後の4月8日には始業式、同9日には入学式を執り行い、同28日に新校舎落成記念式典を行うなど目まぐるしく行事をこなしています。
 6月14日に「沼端小よい子のきまり」を制定し、7月18日にプールが竣工、10月1日に校章、11月15日に開校記念日が制定されます。
 この開校記念日は、大畑小ОBのKCNさんがコメントで指摘されたように大畑小と似た事情で埼玉県民の日(11月14日)の翌日に置いて連休とするためだったのでしょう。つまり県民の日を挟んで大畑小は前日13日、沼端小は翌日の15日です。
 昭和52年(1977)5月13日に校門が設置されています。体育館の竣工は何と昭和53年(1978)2月6日になってからです。それまでは専ら校庭で体育の授業を実施していたのでしょう。
 以上の流れからは、武里団地に子供が多く、学校不足から校舎を急ごしらえし、何ともバタバタと慌ただしく学校を整備したことがわかります。当時の校長はじめ先生方の大変さが推察されます。
 校歌は昭和53年3月16日に制定されます。開校して2年後です。ということは私の同級生たちは4年と5年で校歌を歌うことがなく、6年生になって初めて校歌を歌ったことになります。
 沼端小校歌
      作詞 飯田豊
      作曲 日向雅男
 一、緑の風と太陽の
   光りみなぎる この窓べ
   ひとみ さやかに
   集える われら
   たすけあう 心豊かに
   ああ 学びゆく日の
   夢も 楽しい 沼端小
 二、黄金の波に 武蔵野の
   恵みあふれる 校庭よ
   ちから たくまし
   きたえる われら
   みがきあう 心明るく
   ああ 育ちゆく日の
   明日も 楽しい 沼端小
 三、校旗にしるす 三つの輪の
   誓いもかたく 新世紀
   日ざし仲よく
   進もう われら
   足音も ひびき高らに
   ああ 栄えゆく日の
   希望 楽しい 沼端小
 校歌の大きな特色は、まず作詞・作曲に沼端小の校長先生が関与していないことです。大場も大畑も初代校長(大場は根本禧弌、大畑は森又三)が作詞に携わっていますが、沼端小の初代校長は作詞を手掛けませんでした。
 歌詞の内容ですが、歌枕(名所)が「武蔵野」1カ所だけです。本来なら校歌に歌枕が盛り込まれることにより、地域の名所を覚え、また地域に親しみを持たせる教育効果が期待できます。
 作曲は大場、大畑、沼端も日向雅男さんが手掛けています。これは校歌の作曲と言えば日向さんという流れがあったのでしょう。沼端小の歴代校長は次の通りです。
 ①斉藤暹(昭和51年~)
 ②遠藤正康(昭和56年~)
 ③卯木郁郎(昭和61年~)
 ④安野利栄(昭和63年~)
 ⑤新井武揚(平成4年~)
 ⑥八尾實(平成8年~)
 ⑦野中明(平成12年~)
 特色は在任期間が大場・大畑小の校長より比較的長いことです。初代、2代目は5年間、4代目~6代目は4年間の在任です。 
 さて例のように春日部市『学校要覧 平成14年度 小学校2』に基づいて児童数の変遷をグラフに表しました。 

 沼端小の児童数変遷グラフの特色は、大場、大畑小と同様に急増漸減の特徴を示しています。昭和53年に1123人に急増しますが、これは学区再編により武里小283人が沼端小に編入したことによるものです。
 しかし、児童数は減少の一途をたどります。

 昭和56年に1000人を切り、平成元年に450人に半減、さらに平成9年に222人と半減し、統廃合の前年平成14年には193人にまで数を減らします。単純に6学年で割って1学年1クラス(30人程度)が成立するという状況でした。
 これは沼端小児童の大部分を占めていた6街区の子供たちの数が減少したためと推察されます。武里団地人口に子供の占める割合変化がそのまま投映されています。