ここは武里団地9街区

丙午生まれの昭和回想

おとうと、その2

 昭和44年(1969)11月生まれの弟はYと漢字2字(音は3字)を名付けられました。この名前について父親は「学者から取った」と話していました。

 私の名前Tは当時の男の子に付けられた割と普通にある名前でした。しかし、弟の名前、特に漢字の組み合わせに関しては名前としてあまり見たことがありません。

歩く弟。立って歩けるようになる1歳半だとして、昭和46年(1971)5月頃か。場所は2―9と2―4に挟まれた広場。後ろに化粧壁。後年、弟は自転車でこの壁に激突する。女の子たちが立つ場所は水を張る池だったように記憶している。この時は水を張っていない。私自身は池状態を見た記憶がない

 兄の目から見て、好字を使った縁起のいい名前だと思うのですが、弟は20代の頃、この名前を嫌がり、改名したいなどと言っていました。
 弟は、私と違って生粋の武里団地生まれの団地育ちとなります。過去の記事「弟自転車、壁激突」で紹介した弟です。

昭和46年頃(1971)の団地商店街。背景右に2―9、左に2―8が見える。写真の真ん中に母親と弟。その左に背を向けて走っている男の子がQ街区のように思われるが、全く記憶がない。子供の多いことがわかる一葉である。背景には蕎麦屋の元禄が写る

 お向かいのIさんの一番下の娘さん(名前がMさん)が弟と同学年でした。2人は9―12のすぐ目の前の第二白百合幼稚園に通園しました。

 昭和50年(1975)に子門真人の大ヒット曲「泳げたいやきくん」が流行しました。幼稚園の出しものか何かで使ったのだと思いますが、Iさんのおじさんが泳げたいやきくんの絵を画き、6歳の弟が確かIさんの娘さんと一緒に「まいにち、まいにち僕らは鉄板の…」と歌っていたことを覚えています。

9―12前の芝生で。弟㊨と、お向かいのIさんの娘さん。見た感じ3歳か4歳か。昭和47年(1972)か48年か。背景の9―13に布団と洗濯物がたくさん干してある。団地らしい風景である。左手に日産スカイライン(?)が駐車。その向こうに住宅が見える

 弟は「泳げたいやきくん」の1番から3番まで全て歌うことができたので、母親がとても喜び、そのことを私に話したことを覚えています。
 弟は昆虫好きでした。当時の武里団地(9街区は端っこなので)は一歩外に出ると、周辺にまだ自然(尤も人の手が入った田畑や森ですが)が多分に残されていました。弟は昆虫の名前をよく知っており、虫を見れば、即座に名前を言うことができました。
 しかし、考えてみると、こうした虫好きで虫の名前に詳しいタイプの男の子は武里団地には結構いたのかもしれません。弟は大場小学校で同級生だったО君に川釣り(元荒川)など野外活動的なことをいろいろ教わったと言っていましたから。
 団地周辺はそれほど生き物の棲む自然環境に恵まれていたと言えます。私自身の記憶ですが、せんげん堀には川面が真っ黒になるほどおたまじゃくしがうじゃうじゃいました。確か農道を歩いている時、食用ガエルを見かけたこともあります。
 その結果、蛙を捕食する蛇もいましたし(別稿「蛇ドロボー!」参照)、それから9―12の前の芝生には秋になるとトンボが飛んできました。つまり餌になる蚊が多く、夕闇の中で蚊柱ができるほどでした。
 そのО君のお兄さんが私とは4年と5年でクラスが一緒でした。しかし、私とО君のお兄さんとは親しくはなく、教室で言葉を交わしたこともありませんでした。弟同士は仲が良かったようです。人間関係の不思議さを思います。