ここは武里団地9街区

丙午生まれの昭和回想

おとうと、その1

 一番古い記憶について書いておきたいと思います。ほかにも古い記憶があるにはあるのですが、しっかりと年月がわかるのは以下の記憶です。
 昭和44年(1969)11月のことです。日にちまでは覚えていません。
 10月生まれの私は3歳の誕生日を迎えたばかりでした。午前中、9―12の横に駐車されている父親の車の助手席に乗せられました。仕事のため東京方面へ車で向かう父親がその途中で私を下ろしました。

 連れて行かれた所はせんげん堀北側にある桑島産婦人科医院の一室でした。父親は母親を見舞い、すぐに仕事へ行ってしまいました。
 部屋は確か白い壁の個室であり、母親が1人でベッドに寝ていました。11月8日に産まれる下の弟が胎内にいました。私は母親の側で、その日を過ごしました。
 私が覚えているのは父親に車で病院まで連れて行かれたことと、その時の母親との会話です。ベッドで一緒に横になりながら尋ねました。
 「赤ちゃんはどうやって産まれるの?」
 「お腹からポンと産まれるのよ」と母親は言いました。
 その言葉を聞いた私は幼心に(それではお腹が破けてしまう。何か変だな)と敢えて言葉にすれば、そう感じたことを覚えています。

恐らく母親が桑島産婦人科医院を退院して、武里団地9街区の我が家に戻ったばかり。3歳の私とみどりごの弟

 桑島産婦人科医院の近くには歯科医院もあったような気がします。幼い頃、そこに通院した微かな記憶があります。

 桑島産婦人科医院の南にせんげん堀があり、せんげん台方面へ橋を渡ると、向こうは駅のほか何もない芒々と寂しい場所でした。今でもそうですが、せんげん堀は道路から水面までが結構落差があり、水面を覗くと水鳥がいたような記憶があります。

 母親が後年、赤ん坊の弟(昭和49年生まれの一番下の弟か?)を背負って何かの用事でせんげん台駅東側方面へ自転車で行った折、そのアップダウンの途中で「転んじゃった」と話したのを記憶しています。確か土の小山があって、ろくに道がなかったような。

 その時の私は(赤ちゃんは大丈夫だったのか)と一瞬頭をよぎったことを覚えています。

次弟を抱く母親と三輪車に乗る私。乳母車を押している。撮影者は父親と思われる。場所は武里団地のいずれか。左上に7―1の外階段の踊り場(?)の外壁が見え、植栽の向こうにレンガ様の外壁が見える(場所の特定はコメント欄を参照のこと)

 この桑島産婦人科医院についてインターネットで調べると、現在は彩都レディースクリニックとなっていました。「旧桑島レディースクリニック」とあるから、ここが旧桑島産婦人科医院なのだと思われます。弟によると、「場所も変わってない」とのことでした。

 長い間、私は桑島産婦人科医院がせんげん台駅東側にあると勘違いしてましたが、どうも記憶違いでした。

 今は様子もすっかり変わってしまいましたが、武里団地を一歩出たせんげん台駅周辺はまだまだ遠くの向こうまで見通しの利く、何もない新開地という感じでした。