ここは武里団地9街区

丙午生まれの昭和回想

「市と公団の利害一致」―武里団地着工60周年記念事業③ 講演会―

 武里団地着工60周年記念事業の講演会が11月19日、近隣公園内の武里南地区公民館で行われ、Q街区が「私と武里団地―昭和の思い出、子供たちの楽園―」と題して1時間ほど話しました。

春日部市合併1町4カ村の図。斜線箇所は昭和19年に合併して春日部町となります。昭和29年に春日部市が誕生します(『わたしたちのかすかべ』より転載)

 春日部市は昭和29年に春日部町、幸松村、豊野村、豊春村、武里村の1町4カ村が合併して成立しました(地図参照)。新春日部市の掲げた構想は10万都市でした。
 それには人口を増やす必要があります。一方、昭和30年に成立した日本住宅公団は人口増加と住宅不足を視野に入れて全国各地に公団住宅を次々と造営しました。
 しかし、一気に人口が増えるということは、保育施設や学校が足りなくなり、その建設予算を捻出しなければならない地方自治体にとっては財政逼迫を招きます。中には公団住宅建設を忌避する自治体も出てきていました(『春日部市史』)。
 ところが、武里団地の場合、春日部市が10万都市を目指し、公団は集合住宅建設を推し進めたい、双方の利害が一致しました。昭和38年に武里団地が着工されました。
 明治時代後期の地図を掲げます。

明治時代後期の武里周辺地図。大枝、大場谷中、大場のエリアに団地が造営されます。せんげん台駅はありませんが、千間堀が確認できます(『埼玉県市町村史』第17巻、昭和54年より転載)

 農村地帯の只中に団地が造営されたことがわかります。

 昭和44、45年当時の地図と見比べると一目瞭然ですが、まさに純農村地帯に突如として1個の自治体にも相当する規模のマンモス団地ができたことがわかります。

昭和45年頃の武里団地及びその周辺の地図。大枝、大畑、大場、谷中の4つの字にまたがるように武里団地が造営されたことがわかる。大畑、大場、谷中は小学校名に採用された。市境を越えるとせんげん台駅。千間堀の流れは変わらない。国道4号線は「陸羽街道」表記(『埼玉県市町村史』第17巻、昭和54年より転載)

 日本史的な文脈(農村史、住居史、生活文化史の観点から)から行くと、武里団地の出現は一種異様なできごとでした。

 このことは、一体どういう事態を招くことになるでしょうか。

 この続きは別稿に改めて紹介したいと思います。