ここは武里団地9街区

丙午生まれの昭和回想

団地祭り―武里団地着工60周年記念事業⑩ 講演会―

 講演の終盤に入ります。平成21年(2009)の撮影写真を使いながら、団地商店街(7街区、2街区)にタイムトラベルしました。
 解体前の静けさというか、2街区は寂寥感漂っています。
 すると、ざわざわと人の声が聞こえてきました。祭りに興じる人たちの声です。
 平成21年8月1日(土)と2日(日)に2街区で開催された武里団地名店会主催「第43回武里団地けやき祭り」です。

 ウィキペディアによると、2010年9月までに7街区(2棟)と商店街の退去と2街区(4棟)商店街の団地内移転が行われ、2011年に解体が完了した、とあります。
 つまり「第43回武里団地けやき祭り」は、2街区を主会場とした最後のけやき祭り(団地祭り)という位置づけになります。私は7月25日に元禄(日本蕎麦屋)のおかみさんからそのことを聞かされ、同年8月1日に再訪しました。

解体予定の2街区を会場とした最後の団地祭り。いつからか不明ですが、けやき祭りと改称されました(2009年8月1日、Q街区撮影、以下同じ)

 けやき祭りは第43回と銘打っていたので、2009年から42回(第1回は除く)を引くと1967年、即ち昭和42年(1967)となります。第1回武里団地夏まつりは、大畑小・同小プールの落成を記念して開催されました(「コミュニティーライフ武里団地」所収「武里団地32年のあゆみ」より)。この時の会場は不明です。
 昭和47年(1972)、バス通り(今の「けやき通り」)を歩行者天国「夏まつりちびっこ解放区」とするイベントがあり、そこで併せて団地祭りが開催されるようになります。
 平成21年(2009)8月1日に2街区を訪れた私は何とも不思議な感覚にとらわれながら祭りを眺めました。

 

2―9とけやき祭り会場。テントが張られ、多くの住民が祭りを楽しんでいる

 子供の頃、今の第二白百合幼稚園が空き地だった頃、眺めた祭りの様子。夜店、やぐら、盆踊り、賑やかな人の声。
 恐らく昭和44~46年の3歳から5歳の頃です。9―12の3階の自宅窓の外から会場方面が夜闇の中に明るく浮かび上がり、喧噪が耳に聞こえてきました。
 この9街区での団地まつりですが、会場が変わった可能性があります。
 幼い頃の記憶ですが、確か祭り前日の会場に足を運んだ際、広場の東端(つまり8街区寄り)に木の柱で組まれたやぐらがありました。夜になり、会場へ母親に連れられて出かけました。たくさんの夜店が並び、多くの人出がありました。
 その時の記憶はおぼろげであり、印象として微かに覚えています。
 昭和47年(1972)に第二白百合幼稚園の園舎が建設されると、そこで開催されていた団地祭りは今のけやき通りに会場が移されたものと考えられます。これは先述した通り、昭和47年から会場を「バス通り」(けやき通り)に移して開催したという記述と符合します。

夕闇も近い時刻。けやき祭りの淵源は団地祭り

 通り沿いに夜店がずらりと並んでいました。私の覚えているのは、玩具、綿あめなどを売る店がありました。親にお面(ヒーローもの)や水あめなどを買ってもらった記憶があります。
 その頃の祭りの呼称ですが、私は「団地祭り」と呼んでいました。
 祭り会場がバス通りに移り、通りの街路樹のけやきが成長して、存在感を増すようになり、いつしか祭りの名前も「けやき祭り」と変わったものと推察されます。

 2街区の広場にはステージが仮設され、その両側には名店会の各店舗の名入りの提灯が飾られていました。

団地名店会の祭り提灯

懐かしい商店名が見えます

けやき祭りの仮設ステージ上では様々な余興が行われました。写真は谷原中学校生徒によるソーラン節

 私がステージ上で見たのは谷原中学校生徒によるソーラン節です。はつらつとした振付でダンスを披露しました。谷原中もすでに統廃合されてありません。
 私が大場小を転校しなければ、通学していたであろう中学校でした。お向かいのIさんのお姉さんが谷原中に通っていました。母親を介して「谷原中は遠い」という話を当時聞いていました。私はそれを聞いていずれ自分も谷原中へ通うのだということと「遠い所へ通うのは嫌だな」と感じたことを覚えています。

 最後に指摘しておきたいのは、この団地祭りの神社は〝一体どこの神社なのか〟という点です。このことは講演会場でも疑問として取り上げました。過去には神輿担ぎもあったようであり、その古写真が残されています。
 春日部市郷土資料館学芸員の鬼塚知典さんとも話したのですが、お互いに首をひねるばかりでした。会場の聴衆の皆さんにも「この団地祭りの神社は一体どこなのですか?」と投げかけました。
 民俗学的な立場から言えば、通常、祭りというのは町や村の鎮守(神社)があり、五穀豊穣、防火、無病、学業向上、商売繁盛の祈願や感謝を込めて催されるものです。
 私の転校先の群馬県桐生市祇園祭り(今は桐生八木節まつりの一環)は、美和神社境内(明治期に合祀された)から神輿渡御で牛頭天王(病気を司る仏教神)を乗せて、本町の当番丁(年によって変わる)の御旅所まで運び、そこで神様に〝にぎやかし〟を楽しんでいただきます。にぎやかしは、江戸時代なら鉾巡行、子供手踊り、能楽狂言など、現代ならば鉾の引き違い、八木節踊り、ダンス八木節(ダンスの大会)、繭玉転がし競走(絹織物産地にあやかり)などです。

次第に暗くなるにつれて人出も多くなりました

 ところが、武里団地には〝団地神社〟がありません。原武史の『滝山コミューン1974』の中に公団住宅の中には神社を勧請して祀ったところもあることが1文だけ出てきます。日本史上でムラやマチができると必ず鎮守を祀ります。ムラやマチに精神的支柱になる〝カミ〟を祀り、祭礼を行うというのが古来よりのパターンです。
 ところが、武里団地の夏祭りは神社がないという前提のもとで祭りを実施していたということになります。これは団地に住んでいた子供当時は何の疑問も抱くことなく、受け入れていた事態なのですが、本来はこのことはとてもおかしなことであり、日本史と民俗学の文脈から行っても珍妙だと言えるでしょう。
 当時のおとなたち、団地住民たちもその辺を疑問に感ずることがなかったのでしょうか。本来、〝団地神社〟が造営され、その神様を寿ぎ、喜ばせるため、延いては自身の家内安全・無病息災を祈願・感謝して祭礼は執り行われるはずです。

 いろいろな出身地を持つ昭和41~43年に入居した団地住民は、恐らく幼少期にそれぞれの村や町で祭りを体験しているはずです。ヨーロッパからのアメリカ移民がヨーロッパの生活文化を持ち込み、そのまま踏襲したように〝団地移民〟たちも出身地で経験した祭り(団地祭り)や盆踊り(武里音頭)、年中行事を持ち込みました。 

団地祭りは元武里団地住民たちにとって祭りの原点と言えるでしょう

 あくまで私個人の推論ですが、以上のことから昭和30年代、40年代の高度成長期に日本人の中で「祭り」に対する価値観が大きく変わったとも指摘できます。公団住宅の住民に限ると、祭礼ではなくイベント化したのです。〝神不在〟の団地祭りは、その象徴とも言えるでしょう。
 しかし、私はこの神様がいるのかいないのかよくわからないような在り方がさほど嫌いでもありません。神様の名の下に「是か非か」「黒か白か」と殺伐になるよりも日本人のこの何とも言えない無節操さ(というかそこはかとなさ)が心地よいと思っています。
 以上、理屈はそうなのですが、それでも私にとって団地祭りは、人生最初の祭りの経験であり、何とも懐かしく、郷愁にかられる思い出の対象です。