ここは武里団地9街区

丙午生まれの昭和回想

谷中小学校、4、5街区の児童が通学―武里団地着工60周年記念事業⑦ 講演会―

現在は谷中小記念公園となっている(2009年7月25日、Q街区撮影)

 谷中小学校の学区に武里団地4、5街区も含まれていたことを最近になって知りました。
 『学校要覧 平成14年度 小学校2』によると、谷中小学校の学区は、武里団地4、5街区、大畑、大場、千間一丁目、大枝です。谷中小学校の児童たちは中学校に上がる段階で、谷原中学校と中野中学校に通う子に分かれたようです。
 しかし、武里団地に住んでいた当時(昭和43年~昭和52年7月末)の私の中の谷中小学校のイメージは、武里団地の子供ではなく、住宅街の子供が通学する学校というものでした。
 この一部誤った認識は、武里団地で生まれ育った弟が第二白百合幼稚園を卒園して大場小へ入学し、住宅街から通園したクラスメイトが谷中小へ入学して別れたため「住宅街の子は谷中小に通う」と話していたことに起因しています。
 谷中小学校は昭和46年(1971)4月1日、児童数560人、学級数15、教職員18人、市職員5人でスタートしました。初代校長は青木琢也氏です。
 この谷中小の開校によって大畑小に通学していた武里団地4、5街区の児童たちは谷中小に通うようになりました。
 武里団地関連の小学校の系統を時系列で並べると、昭和41年に大畑小が創立し、昭和43年に7~9街区の児童が大場小へ、同46年に4、5街区の児童が谷中小へ、昭和51年に大場小の6街区の児童が沼端小へ移るという流れになります。最終的には大畑小に通学した児童は1~3街区の子供たちということになります。
 谷中小は昭和47年2月12日に初めての開校記念日を迎え、また同日に校章が制定されました。校舎と体育館は同年5月10日に竣工しました。

北側から見た谷中小体育館(2023年10月17日、Q街区撮影)

東側から見た谷中小体育館。私が住んでいた昭和52年には信号はありませんでした(2023年6月22日、Q街区撮影)

 翌年の昭和48年3月5日には校歌が制定されました。
 谷中小学校校歌
      作詞 宮沢章二
      作曲 小山章三
 一、広野に生まれる みどりの風
   今日のよろこび 告げる窓
   望みあかるく 笑顔の花も
   咲くよ 谷中のまなびやに
 二、日毎にあふれる いのちの歌を
   友ようたおう 高らかに
   かおる知恵の実 伸びゆく力
   共に育てて たくましく
 三、この世の花園 われらが作る
   愛のひかりを ひろげつつ
   夢はひとすじ あしたの鳥よ
   飛ぼう 谷中の青空へ

谷中小記念公園の片隅に立つ谷中小校歌の石碑。昭和56年度卒業生の建碑(2023年10月17日、Q街区撮影)

 まず歌枕ですが、全く採用されていません。ウィキペディアによると、作詞を手掛けた宮沢章二(1919―2005)は埼玉県羽生市出身。東京大学文学部美学科卒業。埼玉県立不動岡高校教諭時代に作詞家として活動を開始し、校歌・童謡・合唱曲をつくりました。校歌作詞に関しては埼玉県内中心に300校以上にのぼるとされます。
 国立音楽大学同調会ホームページによると、作曲を手掛けた小山章三は昭和29年に国立音楽大学を卒業。同大学で教官として勤め、平成7年で退官。同大学名誉教授。2017年12月22日に87歳で死去しました。
 谷中小の作詞・作曲者はいずれもプロであるという点が特徴です。そのためか大場小で採用された歌枕の富士、筑波、古利根、武蔵野が取られていません。あるいはこうした歌枕のない歌詞が流行していたのでしょうか。
 大場、大畑小の校歌作詞は初代校長が手掛け、大場、大畑、沼端の作曲は日向雅男氏が手掛けました。大場、大畑、沼端の校歌は人脈的なつながりが感じられますが、谷中小は先の3校と比べ、つくられた経緯が全く異なることがわかります。

 私は子供の頃、谷中小学校の校舎ができる過程を目にしているはずですが、その辺の記憶がはっきりしません。しかし、谷中小ができてからは校門を入ってすぐの幅広の階段を児童たちが上がっていく姿を日常の風景として目にしました。1度くらいは学校敷地内に友人と入った気もするのですが、おぼろげで断言できません。

 この谷中小の校舎は大場、大畑、沼端と異なり、上空から見ると「H」型になっています。東側中央に階段があり、上がると2階部分に玄関があったものと思われます。『学校要覧』記載の間取り図によると、2階部分に1、2年生の教室、3階に3、4年生の教室、4階に5、6年生の教室が確認できるので、登校するとまず2階へという流れになることがわかります。それを子供の時の私が見ていたのでしょう。

 間取り図を見ると、階段下の1階部分には「消防通路」と呼ばれる箇所があります。記憶がおぼろげですが、校庭へ通ずる吹き抜けであったように思います。

 谷中小は校門を入って、すぐ校舎階段があり、その裏側(西側)に校庭がありました。校庭面積は7186平方メートル。これは沼端小の10829平方メートルと比べると3分の2の面積であり、やや狭さを感じます。運動場部分は今は住宅街になっています。
 歴代の校長先生は次の通りです。任期は全て4月1日以降。
 ①青木琢也(昭和46年~)
 ②石田幸吉(昭和48年~)
 ③高橋正(昭和54年~)
 ④大森敏雄(昭和55年~)
 ⑤柿沼要一(昭和57年~)
 ⑥鈴木文雄(昭和59年~)
 ⑦篠崎英治(昭和62年~)
 ⑧辻勝明(平成4年~)
 ⑨篠塚和巳(平成7年~)
 ⑩坂庭昇(平成10年~)
 ⑪出戸義和(平成13年~)
 特徴は在任期間が極めて短いという点です。2代目の石田氏の6年間を除くと、1~3年です。人事異動の事情は外部者には全くわかりませんが、いろいろと交錯した事情があったのだろうと察せられます。
 平成15年3月末に谷中小は廃校となり、大場、沼端小と共に武里西小に統合されます。児童数の変遷をグラフにしたかったのですが、『学校要覧』に児童数の記載がないため、作成できませんでした。平成14年5月1日現在で464人の児童数がいました。

 ということは、創立時の児童数560人と比べて約100人の減少ということで、大場、大畑、沼端とどうも事情が異なるようです。
 現在は校舎がすでに取り壊され、校舎跡地(5988平方メートル)は「谷中小記念公園」(広場)となっています。
 谷中小の痕跡は、体育館と校歌を刻んだ石碑(昭和56年度卒業生寄贈)の2つ。

 体育館は一般の方に利用されています。

 公園西北の木蔭には校歌の石碑が寂しげに立っています。