講演の内容(大畑小学校の児童数に触れたのみ)を一部ふくらまし、大畑小学校のことをご紹介します。大場小学校5年中退の私が大畑小学校のことを書くのは気が引ける部分もありますが、データと文献を基に書こうと思います。
武里団地の人口は昭和45年に21687人となります。ちょうど入居した世帯に子供が生まれて幼少期を迎え、またその子たちに弟妹ができる頃です。
その弟妹たちが小学校に上がる頃、大畑小学校(現、武里南小学校)、大場小学校(現、武里西小学校)の児童数はピークを迎えます。
春日部市編『学校要覧 小学校2』に基づいて、武里団地関係の小学校の児童数をグラフにして変遷を示しました。
昭和41年(1966)の入居開始に合わせ、大畑小学校が4月1日に開校しました。児童数135人、教員9人、学級数7という小規模校としてスタートしました。
9月1日に校歌、同15日に校旗(校章のことと思われる)が慌ただしく制定され、学校としての様相を整えて行きます。大畑小校歌を次に掲げておきます。
大畑小学校校歌
作詞 森又三
作曲 日向雅男
一 緑の風の学びの窓に
希望あふれて明るい未来
守ろう父母と師の教え
はげもうきょうもまたあすも
われらはほこる日本のこども
その名 大畑小学校
二 空は青空教えの庭に
土はかがやき明るい太陽
のばそう強い知と力
かざそう自主の旗じるし
われらはほこる日本のこども
その名 大畑小学校
作詞は初代校長の森又三氏。ちなみに大畑小の歴代校長は以下の通りです。
①森又三(昭和41年~)
②根本禧弌(昭和46年~)
③横田繁(昭和48年~)
④小川勝信(昭和51年~)
⑤栗原安治(昭和55年~)
⑥深井泉市(昭和60年~)
⑦高島貞夫(昭和62年~)
⑧西崎道喜(平成元年~)
⑨加藤勉(平成3年~)
⑩穐場豊(平成6年~)
⑪篠崎卓滋(平成8年~)
⑫渡辺研二(平成11年~)
12代の渡辺校長を最後に平成15年3月31日に大畑小は、大場小、谷中小、沼端小と共に閉校しました。4小学校と備後小の学区は再編され、同16年4月に武里南小(大畑小の場所)、武里西小(大場小の場所)が誕生しました。
さて校歌ですが、通常は歌詞に歌枕(名所)を盛り込むのがセオリーですが、歌枕のないのが大きな特色となっています。これは作詞者の森又三氏に聞いてみないとわかりませんが、作詞段階では大場小校歌にある「富士」「筑波」「古利根」が武里団地を取り巻く歌枕だと認識されていなかったからではないかと思われます。
開校記念日は5月4日(昭和62年度「11月13日」に変更、理由不明)と決まりました。大畑小の児童数はうなぎ上りでした。
昭和43年には大場小学校が大畑小の中に創立し、校舎の完成と共に6~9街区の児童がそちらへ移り、昭和46年には谷中小ができ、4、5街区の児童289人が移ります。
しかし、大畑小児童の上昇傾向は止まりません。昭和48年(1973)に1428人、同49年(1974)に1538人を記録します。この前後の数値はわかりませんが、この1538人に両親の2人を掛けると3076人。児童数と足すと4614人です。少なくとも武里団地人口のおよそ5分の1を大畑小関係者が占めていたことになります。
その意味で大畑小は武里団地のキング・オブ・キングならぬ小学校の中の小学校という位置に君臨していたわけです。武里団地の小学校の代表格でした。
同53年(1978)には1478人が在学しています。この年は団塊ジュニア世代(第一次ベビーブームの子供たち)が育ち、小学校に入学した時期に相当します。
この団塊ジュニア世代が成人して結婚期(就職氷河期のため晩婚化・非婚化が進む)を迎えた平成12年(2000年)前後に子供を2人以上産んでいれば、現在のような〝異次元〟とも言える少子化は防げていたかもしれません。
絶滅危惧種の動物ではありませんが、絶対数があるところまで落ちて、何とか残そうと保護しても手遅れ感があるのと同じで、児童も下降の一途をたどります。
大畑小学校児童数変遷グラフの特色を一言で表すと、〈急増漸減〉です。これは以前に別稿で紹介した大場小学校にも当てはまります。