ここは武里団地9街区

丙午生まれの昭和回想

「本当に東洋一?」—武里団地着工60周年記念事業②講演会—

春日部市郷土資料館学芸員の鬼塚知典さんが着工当時の武里団地の様子を話した(2013年11月19日、Q街区撮影)

 武里団地着工60周年記念事業の講演会が11月19日、近隣公園内の武里南地区公民館で行われ、春日部市郷土資料館の学芸員、鬼塚知典さんが「1963武里団地―1960年代の武里団地のあゆみ―」と題して1時間ほど解説しました。
 主に着工時期の武里団地に焦点を絞って解説。1963年に準備工事が開始され、翌1964年7月に国道4号線から資材搬入のための道路が造られました。
 その際「江戸川近辺の台地上から約100万立方メートルの土が搬入されて埋め立てられた」と紹介しました。
 昭和40年(1965)年2月1日に起工式が行われ、本体工事が開始。昭和41年(1966)には入居が始まり、その間も工事が継続され、昭和43年(1968)1月に敷地面積58万2000平方メートルに10階建て2棟及び、4、5階建て177棟が竣工しました。総戸数6119戸(賃貸5559戸、分譲560戸)の規模です。
 鬼塚さんは「当時、武里団地は東洋一のマンモス団地と言われましたが、果たして本当にそうだったのか」と疑問を投げかけました。
 また「そもそも一体どこからどこまでが東洋なのか」ともした上で「日本住宅公団大阪府営住宅と大阪府住宅供給公社と手掛けた千里ニュータウン(集合住宅、戸建て)は1962年発行の週刊誌『週刊現代』で『夢の東洋一のマンモス団地』と謳われ、約3万7000戸があった」と紹介しました。
 最後に①現在の春日部市は1960年代に多く整備②武里団地の完成もあり、人口は1960年代に急増③「食寝分離」の新しい生活様式④子供の増加で学校の建設ラッシュ―などと分析しました。
 その上で「60年が経過して人口減少、建て替えが進み、急速な社会環境の変化と歴史を後世に伝える必要がある。ぜひ自分の記録を文章化して」などと呼びかけました。

 この最後の自分史の呼びかけですが、原武史重松清団地の時代』(新潮社、2010年)にも指摘されていますが、公団住宅の居住者による回顧録は確かに少ないようです。そうした回顧録があることによって、昭和30、40年代の公団住宅の生活史や居住意識を窺う際に貴重資料となることでしょう。

 私は聴いていて(なかなか書こうという人はいないだろうな)と感想を抱きました。私のブログとて当時の子供当事者からの視線という制約付きの回顧録です。大人には大人の事情があったようであり、帰りがけに年配の女性2人と立ち話をしましたが、「同じ階段を使う10軒がうまく行けば、いいところだと思う」と仰っていました。その言葉の裏には「いろいろあって大変なのよ」ということなのでしょう。