ここは武里団地9街区

丙午生まれの昭和回想

引っ越し、その2

ありし日の武里団地9―12。左下に第二白百合幼稚園。ここから引っ越したことが私の人生の分岐点でした。引っ越さずに団地でそのまま成長していたらどのような人生を歩んだのだろうかと考えることがあります(2011年8月8日、Q街区撮影)

 埼玉県春日部市武里団地に住む私の家族が群馬県桐生市の父親の実家に入ることになりました。
 今は民主主義の時代ですから、桐生市に住む叔父さんたちのいずれかが実家に入ってもいいわけです。そうすれば、私たち家族も引っ越すことはありませんでした。
 ところが、半世紀前なので家父長制の名残りなのか私の父親は「長男だから」という理由で、どうも押し切られたように思われます。
 引っ越すことが決定しました。
 母にそう告げられました。直後の私の心境を振り返ると、少し不安はありましたが、引っ越すのが嫌だとは思いませんでした。ただ両親が引っ越しを決め、それを受け入れていただけというものでした。
 それでも引っ越しの日が迫るにつれて次第に引っ越すのが嫌だなという気持ちが強まって行きました。とは言え、当時の私は、それに対して抵抗したり、回避するための行動を取ることもしませんでした。

 東京で生まれ育った私の母(当時35歳)は、北関東の最果て(イメージ的に)の桐生へ引っ越すのが嫌で嫌でしようがなかったらしく、毎日Iさんのおばさんのところへ行って、「引っ越したくない」と泣いていました。
 当時の私はそのことを全く知りませんでした。この事実は2011年8月に取り壊し前の9―12でIさんのおばさんに再会した折に聞かされた話でした。その話を聞いた時に母親の心情を思うと何とも言えない気持ちになり、(かわいそうに)と思わずにはいられませんでした。
 引っ越し作業は、父が弟(当時、志木市在住の叔父)のトラックを借り、荷物を載せて運びました。

 私の家が桐生に越すに当たってはいろいろと困ることが生じました。まず父親の仕事です。父は自営業(出版業)でした。仕事の拠点を東京に置いており、桐生へ移ると仕事に支障が出ます。
 しかし、祖父母の世話はしなければならない。武里団地に住む私の家族は大きな変化を強いられました。私と2年生の弟は転校しなければなりません。
 結果的には、一家挙げての引っ越しとはならず、実質的には母親と私と弟2人の計4人が桐生へ引っ越すことになりました。父はそのまま武里団地を借り、平日は団地に住み、月に2、3度、桐生へ来ることになりました。
 いわば、二重世帯という形になりました。経済的な負担が少なくなかったと推察します。大人になった今の自分が思うに、家族としてこのような形が果してよかったのかどうか疑問に思います。結局、父親は借金を重ね、私が19歳の時に両親は離婚しました。

 寝たきりの祖父母は私の母が世話をしました。しかし、2学期を迎える前に立て続けに亡くなりました。また引っ越すわけには行かず、そのまま桐生に定住しました。

 今思うと、桐生への引っ越しは、うちの家族が犠牲になったというわけです。