ここは武里団地9街区

丙午生まれの昭和回想

白黒テレビ、カラーテレビ

 

昭和41年(1966)10月頃、東京にて母と生後まもない私。右側にかろうじて白黒テレビが写る。このテレビは引っ越しにより武里団地に持ち込まれた

 私がまだ3、4歳の頃、即ち昭和44年(1969)、45年(1970)のテレビというと白黒テレビでした。当時の記憶を思い起こすと、細く伸びた4脚の上に頭でっかちな箱が乗っかているといったようなタイプの白黒テレビでした。

 細い脚に大きな箱ですから、少し押すとテレビがぐらつくんですね。劣化も加わり、団地の白黒テレビもかなりぐらぐらしました。母親から「動かさないで」と言われたことを覚えています。

昭和42年(1967)5月初旬、東京にて。生後7カ月の私の右背後に白黒テレビが写る。箱の下に伸びる脚の細いことがわかる

 チャンネル(取っ手の付いた円形のもの)をガチャッ、ガチャッと回すとテレビ局が切り替わります。

 テレビは出始めの頃、テレビジョンと呼んでいました。私が子供の頃は「テレビ」でしたが、確か年配の方で「テレビジョン」と呼んだ方がいらっしゃたような記憶があります。それがいつ、どこの記憶かはきれいさっぱりと忘れています。

 我が家もある時期、カラーテレビが導入されました。武里商店街の「エビナ電気」で買いました。時期は忘れてしまいました。買った時、すぐ下の弟がいたような気がするので、恐らく私が白百合幼稚園年長か大場小学校1年生ぐらいでしょうか。即ち昭和47年(1972)か48年(1973)頃になります。
 子供心に「エビナ電気」という店名を記憶しているのは、カラーテレビが我が家に入ったことがとてもインパクトのあったことだからだと思います。

 このエビナ電気ですが、『春日部商工名鑑』(春日部商工会議所、1996年)によると、正確には「株式会社 エビナ電気商会」といいます。うちが利用させていただいた武里店は春日部市大場1096―3にありました。エビナ電気商会は一ノ割店、豊春店と計3店舗ありました。経営者は海老名義雄さんと言います。

 当時のことですから、持ち帰りではありません。エビナ電気の男性の店員さんが車で届けてくださり、テレビを設置してくださいました。

 うちが購入したカラーテレビは白黒テレビと対照的に脚が太く、短いものでした。カラーテレビが届いた時はおぼろげですが、うれしかったことを覚えています。

 私の世代の人たち(50代以上)はテレビっ子世代なので、テレビ番組は夢中になって見ました。但し、父親のいる時はなかなか好きな番組が見られませんでした。ということはチャンネル権は父親が掌握していたことになります。父親はよくプロ野球を見ていました。そのせいか私は今もテレビでプロ野球を見ません。

 以前にも書いたように私自身はアニメやヒーローものを好みました。

 お笑い系だと「8時だよ全員集合」が著名ですが、もう1つ好きだったのが「笑って笑って60分」でした。これまたうろ覚えですが、確かジェリー藤尾さんが司会をし、ずうとるびが出ていました。コメディアンの伊東四朗小松政夫も出ていて、小松の親分さんは本当に面白かった。番組内で短い学園ドラマが放映されましたが、父親に「ドラマなんか見るな」と言われ、消されてしまった記憶があります。そのせいか、私は好んでドラマや映画を見るようになりました。

 日曜日には「家族対抗歌合戦」もやってました。これは、漫才師のてんわわんやが司会をしました。恐らく両親が好んで見ていたのでしょう。大人が見るものを子供も自然に見るようになります。

 時期を忘れましたが、大場小3、4年生の頃のある日、9―12―20■に住む幼なじみのK君と外にいると、そのK君を知るやはり9―12に住む年上のお姉さん(中学生くらい?)が現れ、「K君は『奥様は魔女』見てるの? 私も見てる」と話しました。それを聞き、私も「奥様は魔女」を見るようになりました。「奥様は魔女」は1964年から1972年にアメリカで制作されたコメディドラマです。ヒロインの「サマンサ」が夫を「ダーリン」と呼んだのが印象的でした。

 ウィキペディアによると、カラーテレビの普及率が白黒テレビを上回ったのが1973年ということです。うちがテレビを購入したのはやや早かったということになります。