ここは武里団地9街区

丙午生まれの昭和回想

引っ越し、その3

 

8街区を背に9―1方向を見る。右奥に9―15、左奥に9―14が立つ。私自身の性格の根っこの部分はこの武里団地で形成されました(2011年8月8日、Q街区撮影)

 昭和52年(1977)8月下旬(2学期の開始が5日ほど早い)、群馬県桐生市立西小学校に転入しました。
 クラスは5年3組でした。当時「5年3組魔法組」という子供向けのドラマが放映され、それと同じだったのでうれしかったことを覚えています。
 しかし、うれしいと思ったのもつかの間。前にも書きましたが、私は転校先の桐生市立西小学校に全くなじめませんでした。
 以下のことを記すのは武里団地の環境との比較を示すためです。
 なじめなかった原因は〝いじめ〟です。民俗学者宮本常一さんが奈良県の〝子柄〟の悪さを指摘しているのをどこかで読みましたが、西小の同級生は喩えるならまるで〝小さなヤクザ〟でした。
 実家が畳店だったSという男の子は鋭い目つきをしていて、「気にいんねえんなあ」「リンチしてやる」などと事あるごとに口にしました。言葉遣いがまるで違います。

 大場小学校(5年1組に限りますが)では男の子は女の子に「〇〇さん」、逆の場合は「〇〇くん」と呼び、男の子同士はあだ名で呼び合いました。ところが、西小では呼び捨て、もしくは悪口のような呼び名がまかり通っていました。
 西小は堤町、宮前町、宮本町の住宅街のほか、本町・末広町・小曽根町・永楽町など商店街区の子供で構成されていました。そのため裕福な家が比較的多く、貧しい家の子は見下される傾向にありました。

 特に商店街区の子供は早くから大人と接する機会が多いせいか、性格に抜け目がなく、言葉にも人を気遣うという意味でのオブラートがありません。人を出し抜き、身体的特徴を平気で指摘し、悪口に変えました。

 この相手を出し抜くという桐生の人の気性は〝機場(はたば)〟に由来するという見解があります。「うちの方が同じ物を安くで織れるよ」と取引先を奪う場面が多かったと聞きます。小天地の競争原理で培われ、歪んだ形で子供たちに表象されたのでしょう。
 転校まもない教室でショッキングな体験をしました。ある男子に引っ張られ、ある女の子の席の前に連れて行かれ、「醜いだろう?」と同意を求められたのです。びっくりした私は同意も否定することもなく、ただ黙っていました。

 その女の子はKさんと言い、クラスで孤立していました。その子に触れると「バッキン」(ばい菌?)と騒ぎ立て、子供同士でバッキンを移していきました。指で鍵か何かの形を作るとバッキンが移ることがありません。
 当時のことを振り返り、そのKさんの心情を思いやると、かわいそうでなりません。きっとトラウマになっているだろうと思います。西小時代を思い出したくもないだろうと想像されます。ある日、担任のT先生が男泣きしてKさんへのイジメをやめるよう切々と訴えました。

 「何だ!Tのヤツ」と男泣きの授業が終わった後、そう男子児童のTが吐き捨てました。先生にも呼び捨てが当たり前でした。以降、私の見る範囲ではKさんへの露骨なイジメはなくなりました。

 しかし、今度は別の女の子がターゲットとなりました。男の子たちが彼女たちの容貌をあげつらって悪口の歌を作り、合唱し、何人かの男子が足で床を踏み鳴らします。家がテーラー店だったSさん、またTさんなどがやり玉にあげられました。勉強のできるタイプの女の子たちはそれを黙って見ているわけです。

 私自身もイジメの標的になりました。団地育ちのおとなしい、バカ正直な私などは格好の餌食でした。転校初日に考えられないのですが、学級委員(男女1人ずつ)にさせられました。名前も事情もわからないし、周りも私のことをよく知らないのに、なぜ担任のT先生がOKを出したのか理解できません。クラスの連中は単に面倒な役を転校生に押し付けただけという狡猾な思惑が見え隠れします。

 当時の私は学級委員をやれるような性格ではありませんでした。クラスの連中を並ばせたり、号令をかけるような玉ではありません。黙っていると「何やってるんだ!」と周りからドやされ、何度も泣かされました。

 家が鮮魚店を営む前述のTという男子はことあるごとに私を悪く言い、嘲笑の対象とし、地獄のような日々が続きました。ある日、給食の時間にこちらを振り向き「食べ方が汚い、きったね~」と目立つ声であざけりました。

 SやKといった男子からも言葉の暴力を浴びせられ、嫌がる私に無理矢理プロレスの技をかけ、また組み伏せて唾液を私の口に落としたりと、ことあるごとに泣かされ、次第に学校に行くのが嫌になりました。

 ある日、床にうつ伏せにされ、その上に4、5人に勢いよく乗っかかられ、一番下にいた私は息ができず、苦しく、最後泣いてしまい、しばらくそのままうつぶせになっていたことがあります。出口のない地獄の日常をどうにもできない自分の情けなさと悔しさのような感情が去来しました。

 全くひどいクラスでした。男の子同士の抗争が起こったことも。ある日、Sというちょっと粗暴な男の子を男子たちが集団で取り囲み、トイレに追い詰め、喧嘩になったりと本当にひどいものでした。
 荒んだ環境でしたが、それでも救われたのは親友ができたからでした。その名はT君と言い、実家は塗装業を営んでいました。
 T君は子供ながらも生協宮前店(今はもうない)で買い物をし、またフライパンでホットケーキを焼きます。彼の家でごちそうしてもらったことがあります。また機械をいじることが好きな理系少年でした。
 彼は家に鳩を数羽飼っていました。ある日、彼の家に遊びに行くと、彼は身軽にはしごをタッタと上がり、軒下の鳩舎のドアを開け、鳩を追い出して大空に放ちました。
 その時、私はT君の姿に感動しました。武里団地にはいなかったタイプでした。その後、T君とは鉄道や自転車で遠出(赤城山、日光・足尾、浅間の鬼押出しなど)をするようになりました。

 ただ彼は大人になったら家業を継ぐという運命を背負わされていました。

 そのT君もいじめられる場面があり、私とT君は家出を考えるようになりました。桐生市内に「丸山」という小さな山があります。丸山の麓にあるT君の家の近くの材木屋で木材を買い、T君の家の前で小屋を作ったことがあります。その小屋の中に2人で入って丸山山頂まで担ぎ上げました。

 そして小屋の側に大きな穴を掘って、その上に開閉できるドアを設置しました。家出をし、半年ぐらいそこに寝泊まりした後、日本全国を旅するつもりでした。そんなことを2人で話し合いました。しかし、家出計画も親に見つかり、頓挫しました。

 6年生の時はクラス変えなしで6年3組に進級しました。担任は変わり、Sという男性の先生でした。この先生はビンタを張る体罰教師でした。大人になった今日考えると、問題児の多い3組を担当させられたのでしょう。
 以上のことを記したのは、桐生市での環境と、武里団地に住んでいた頃の環境との違いを明示するためです。

 私は学校の関係で25歳から30歳に県外に住んでいましたが、就職のため桐生に戻りました。しばらく生活するうちにしばし忘れていた10代の頃に抱いていた劣等感、忌まわしい記憶が一気に思い起こされたことを覚えています。
 桐生の人々、会社組織の人たちの言動が、否が応でもそうした現実に引き戻すわけです。会社の上司・先輩には何度も脅され、足を引っ張られ、独特の陰湿さを感じました。(ああ、桐生に戻ったんだな)とあきらめの気持ちで痛感したことがあります。