ここは武里団地9街区

丙午生まれの昭和回想

引っ越し、その1

ありし日の9街区。手前から奥へ9―10、9―11、9―12、9―13、9―14、9―15が見えます。どこまでも懐かしい風景です(2009年7月25日、Q街区撮影)

 武里団地を引っ越すことになりました。昭和52年(1977)7月のことです。私は春日部市立大場小学校5年1組の1学期終了と同時に引っ越しました。
 移った先は群馬県桐生市です。足尾山地の南端の山並みに囲まれる盆地状の地形に市街地が発展し、渡良瀬川と桐生川の流れる山紫水明の地です。
 絹織物業で栄え、私が引っ越した当時も長期衰退(日米繊維交渉の結果)に入っていましたが、最盛期の名残りがまだ色濃く、通学途中で「ガシャンガシャンガシャン」と力織機(りきしょっき)の音が盛んに漏れ聞こえました。
 こう書くと、いいところに引っ越したと思われるかもしれませんが、その市民性は〝新しもの好き〟〝派手好み〟と言われながらも古い因習も強固に残る、少し独特の地域でした。転校してからの私にはつらい日々の始まりでした。

 さて武里団地を引っ越す人たちはどういう理由で出て行ったのでしょうか。いろいろと理由が考えられます。
 ①一戸建ての住宅を建てたから。
 ②仕事の都合、就職や転勤によるもの。
 ③団地生活(隣近所とのトラブル)が合わなかったから。
 ④遠方の学校に進学したから。
 ⑤その他
 私の家が引っ越した理由は⑤です。①~④のどれもあてはまりません。私の父親は桐生市出身でした。父方の祖父母が前後して倒れ、寝たきりになったため、長男である父親が実家に入ることになりました。
 うちが実家に入ると決まるまで、親戚会議が何度か開かれました。父には兄弟が5人おり、そのうち桐生市在住が男3人。いずれも所帯持ちでした。
 私の父親は長男だからという理由だけで、埼玉から引っ越すことに抵抗があったようであり、かなりもめたようでした。
 話し合いの過程で恐らく私の母親も入れて話し合う必要が生じたのでしょう。5月か6月頃、両親が桐生へ出かけることになり、幼い弟2人も連れて行くことになりました。私1人だけで団地に1泊(確か)することになりました。
 母親は私のことが心配だったようであり、担任の関根岳是先生によろしくお願いしますと連絡を取ったのだと思います。そのことは教室で関根先生が「ご両親が群馬へ出かける関係でM(私)は1人になる。みんなよろしく」と話しました。
 関根先生は「K(私の片思いの人)がMのところへ行ってやれ」と冗談混じりに思いもかけぬ言葉を言いました。他の男子が笑って「ヒューヒュー」とはやし立てました。Kさんもパッと振り返り、笑顔で私の方を見ました。
 私は真赤になりました。まるで心の内をみすかされたようでもあり、恥ずかしいのとうれしいのと感情がないまぜになった気持ちになったことを今でも覚えています。
 その夜はお向かいのIさんのお宅で夕食をごちそうになりました。カレーライスを作ってくださり、おかわりして4杯平らげ、Iさんのおばさんとお姉さんに驚かれました。
 そのカレーライスは黒い粒が中に入っており(恐らく黒コショウか何か?)、スパイシーな感じでおいしかったからでした。