武里団地で私の亡き母がひと頃、新聞(夕刊)配達のアルバイトをしていたことがあります。
これがいつのことだったのかはっきりと覚えていません。
恐らく私が大場小2年か3年頃ではないかと思います。すなわち昭和49年(1974)か昭和50年(1975)頃だと思われます。すると母親(昭和17年生まれ)が32歳頃になります。
配達区域は決まっていました。か細い記憶ですが、せいぜい8、9街区の一部だったかなと思いますが、今ひとつ判然としません。
午後3時過ぎ(かなと思います)、配達前に新聞をまとめて業者から受け取るのですが、そこは9―2の1階でした。そこは写真のように一部吹き抜けでした。私が外階段を3、4段上がったところで新聞を受け取ります。
そして9ー1か2から配達を始めました。
武里団地は1階入り口の所に郵便受けがありましたが、新聞をそこに入れた記憶がありません。そこに入れれば、ラクな話ですが、階段を上がったような記憶があります。だからドアの郵便受けに新聞を直接差し込んだのだと思います。
私も母を手伝って、階段を上がって新聞を挿し込んだような気がします。例えば、9―1の101と102の階上は母、103と104の階上は私という具合。
まあ手分けして配達していたんですね。まあ大人と違って、子どもだからトントンわけなく階段を上がれます。
それはそう長い間続いた仕事ではなかったと思います。やっていたのは短期間だったのでしょう。しばらくして辞めたはずです。
しかし、なぜ新聞配達をしていたのだろうと考えることがあります。きっと生活費の足しにしようと考えて始めたとしか思えません。
うちはさほど裕福な家庭ではありませんでした。しかし、ときどき思うのですが、団地のいいところは少なくとも外観からは各世帯間の貧富の格差を感じさせないところにあったと思います。
どんな裕福な家庭でもそうでない家庭でも、みんな規格的な間取りで平等に生活を送る。少なくとも外見からは貧富がわかりません。延いては家や家族が学校でのからかいの対象になりにくい。
ところが、私の転校先の群馬県桐生市は古い町のため団地とは真逆の世界でした。無論いいところもありますが、桐生市では私が異邦人だったから余計そう感じたのかもしれません。
私が武里団地にそのまま住み続けていたらどうなっていたのか。よく考えるのですが、さてどちらがよかったのか、答えが出ません。結局のところ、人間は来し方を肯定して生きるしか方法のない生き物だからです。