ここは武里団地9街区

丙午生まれの昭和回想

大宮公園―大場小の遠足④―

大宮公園の遠足。昭和49年(1974)5月18日、大場小2年2組の集合写真(Q街区所蔵)

 掲げた写真は、半世紀前の昭和49年(1974)5月18日、埼玉県大宮市(現、さいたま市)にある大宮公園へ遠足に行った折の大場小学校2年2組の集合写真です。
 大宮公園は明治6年(1873)に太政官布達によって公園の候補地として選定され、同18年(1885)に「氷川公園」として開園しました。同年に日本鉄道大宮駅が開業しました。NHKの「ぶらタモリ」でも紹介されてましたが、東京近郊の一大遊楽地というか、氷川神社武蔵国一の宮、大宮の由来)参拝も兼ねて結構な人出で賑わいました。
 昭和23年に大宮公園と改称されました。ここはスポーツ施設(野球場、陸上競技場、弓道場)が集中し、また昭和28年には小動物園も開園し、桜の名所でもあります。
 実は、この大宮公園の遠足に関しての記憶は、ほとんどありません。写真が手元に残されているので、かろうじて大宮公園に行ったということがわかる程度です。
 母親が写真に遠足の年月日を裏書きしてくれていたお陰で遠足の月日もわかります。
 写真の飛行機ジャングルジムには児童の半数が登って、半数が地面に立っています。普通の集合写真と違って、何とも立体的且つアクティブで風変わりな1枚です。
 担任は張谷婧子先生です。地面の右側にいる背の高い女性がそうです。お顔を拝見すると、まだ20代なのかという印象です。張谷先生に関しては、こちらが幼すぎて余り記憶にありません。嫌な思い出はないのですが、私と言葉を交わすなどの思い出の記憶が残っていません。2023年10月に武里西小を訪れた際、教頭先生が張谷先生のことを御存知でいらっしゃいました。
 地面に立っている一番端っこの女の子(名前はSさんだっけか?)は、記憶に残っています。よく発言し、モノをはきはき言う聡明な子の印象があります。
 地面の右から4人目の顔だけのぞかせている女子は、Yさんと言い、片思いの子でした。ジムに乗っている左から2人目の男の子T君(体格がいい)と仲が良くなり(一緒にいるのを見たという程度ですが)、それを見た時にある種のショックというか、大人的な表現をすれば興ざめしたことを覚えています。当時の私は何事も受動的なので、ただそう思ったというだけですね。
 地面側の真中の男の子はE君(下の名前はH)です。4年と5年でも同じクラスメイトになりました。比較的穏やかな感じの子でした。
 その左隣りがI君です。8―1の2階に住んでいました。私はこのI君と仲が良く、ご自宅にも遊びに行ったことがあります。別稿「蜂捕り」「秘密基地」に登場したI君です。やはり穏やかなタイプの子です。私自身がそうした傾向にあるため、どうも私が付き合う友人はみんなそうしたタイプが多いようです。
 このI君の後ろにいるのが私のようです。顔がほとんど出ていません。
 地面の一番左端のジムにぶら下がっている女子はSさん(名前はA)と言います。勉強ができ(雰囲気的にも)、絵がじょうずで(確か肖像画で校外の賞を取った)、比較的穏やかで明るい感じの子でした。このSさんとは4年と5年でも同級生でした。
 ジム側の児童たちですが、真ん中の女の子はHさん(名前はK)と言いました。これという特徴を示すことができないのですが、よく話す子だったように思います。
 ジムの上の左から3人目の男の子はU君と言い、この子は4年、5年でも一緒でした。4年の時に氏家先生に目をかけられた子です。
 一番高い所にいる右側の男の子はD君と言います。親分肌というか、スポーツが得意なタイプの男の子です。確か校庭で男子児童が1列に並ばされ、この子にドッジボールの捕球訓練を受けさせられた記憶があります。
 順番に捕球する訳ですが、ほかの子は結構強い球をほうられて捕れずに何やってるんだと叱られてましたが、なぜか私には手加減して投げてくれて、捕れた時にほめてくれた記憶があります。その時の私はうれしかった気持ちになったことを覚えています。
 D君の前のF君は4年、5年でも一緒になりました。私はこの子とさほど話した記憶がないのですが、なぜ覚えているかというと、生年月日が同じで、互いに驚いたことがあったからです。検診か何かの折、生年月日の書かれた用紙を持って順番待ちしていた時に彼は私の前(名前順)にいて、何かの拍子で話した時にそのことがわかりました。
 ジムの主翼部分の女の子の左側に顔半分しか見せていない女の子はEさんと言い、席も隣りになったことがある子です。眼鏡をかけていたので覚えています。よく話す子で、おとなしかった私とも普通に会話し、笑い、楽しかった記憶があります。
 今となっては遥か遠い記憶です。

 この飛行機ジャングルジムは今もあるのでしょうか?