ここは武里団地9街区

丙午生まれの昭和回想

利根大堰―大場小の遠足③―

 

利根大堰の社会科見学。昭和51年(1976)、大場小学校4年1組の集合写真。服装から察するに夏。私は一番遅れて列に加わりました。前から3列目、左端が私です(Q街区所蔵)

 昭和51年(1976)、春日部市立大場小学校4年1組(担任、氏家千恵子先生)の時に社会科見学(あるいは遠足?)で「利根大堰」に出かけました。埼玉県行田市にあり、群馬県側は千代田町になります。交通手段はバスです。
 情けないのですが、実はこの社会科見学に関する記憶はほとんどありません。わずかに覚えていることは掲示した集合写真を撮影する際、私がリュックサックに物(弁当箱か?)を入れるのに手間取り、慌てて撮影場所に行ったことです。
 すでにみんなは並んでいました。その結果、私は最後列の向かって左端にポツンと加わるように収まりました。その後、バスに乗車して帰途に着いたのだと思います。
 最後列右端の背の高い女性は氏家先生、やはり左の方に背の高い女性の方がいますが、この方は教育実習で4年1組に一時期おられました。恐らく埼玉大学教育学部の学生だったのだろうと推察されます。
 後に新任教師として大場小学校に赴任されました(確か)。体育館の檀上でこの先生が紹介されたことを記憶しています。名前は覚えていません。それ以降、私がその先生の姿を見ることはありませんでした。

 3列目右から2人目の男の子はT君と言い、地元の少年野球チーム「レインボーズ」に所属していました。野球がらみで言えば、教育実習の女性の並び(4列目ができている)の一番右端の男の子K君も野球少年でした。テレビでプロ野球観戦をよくしており、教室では誰それの投手がどうのとか、そうした話をよくしていました。

 3列目右から6人目の児童は4年が終わると同時に転校し、その後、別稿「テレビで再会」でも紹介した男の子です。その左隣りがS君といい、当時9―13在住で幼稚園の頃は仲が良く、家にも行ったことがあります。その左隣りのI君は当時8―1在住で2年生の時も同じクラスで一緒に蜂を捕まえる遊びをしたことがあり(別稿「蜂捕り」」参照のこと)、5年の時はせんげん台駅前の造成前の原っぱで一緒に秘密基地をつくったことがあります(別稿「秘密基地」参照のこと)。

 真ん中やや左にプロ野球日本ハムファイターズの野球帽を手にした男の子がいます。この子はG君(当時8―15在住)と言い、4年1組の進級初日に教室で1人ずつ立って自己紹介をした際、「あだ名は餃子と呼ばれてました」と話したことを覚えています。ただ彼は「餃子」と呼ばれることはなく、何か別のあだ名で呼ばれたように思います。

 私の真ん前で中腰の男の子はU君(当時8―15在住)と言います。氏家先生に特に目をかけられました。やはり4月初旬だと思いますが、U君の「はい」という返事の仕方に氏家先生が不満だったようであり、何度も立ったまま返事をさせられ、先生はその度に目をつむって首を横に振られました。何十回と繰り返した末に先生がコクリとしたことを覚えています。どうなるのかと緊迫した空気に包まれましたが、教室のみんなが安堵した瞬間でした。但し、U君の声はかすれてしまい、しばらくかすれたままで気の毒でした。

 それは4年1組の教室の空気が変わり始めるきっかけになる出来事でした。U君はN君(当時8―16在住)、Sさん(当時9―7在住)と共に氏家先生にかわいがられ(この実感は当時もありました)、発言賞(別稿「発言賞決定!」参照のこと)も結構取ったように記憶しています。N君はハンサム、Sさんはしっかりした女子でした。

 U君の真ん前のしゃがんでいる男の子はK君(当時8―18在住)といい、3年5組の時、私と一緒に夏休みの学校プールでサングラスをかけた男の先生に泳ぎ方の指導を受け、泳げるようになった子です(別稿「泳げるように」参照のこと)。
 さて、利根大堰です。上毛かるた群馬県の児童が誰でも知る地域かるた)の読み札で「利根は坂東一の川」と読まれる利根川。「坂東太郎」とも言い、流域面積(本支流の水となる雨と雪の浸透範囲)1万6840キロ平方メートルは日本で一番です。流域は群馬県がすっぽり入り、栃木、埼玉、茨城3県の一部をカバーします。川幅も結構あります。
 この利根川は今でも台風来襲時に増水して洪水被害をもたらすことがありますが、この大河川をどう制御するかが、江戸幕府以来、歴代為政者たちの悩みの種でした。
 集合写真の背景に利根大堰が写っています。水資源機構利根導水総合事業所ホームページによると「利根大堰では12門のゲートを操作して、川の水が少なくなったときでも取水を続けるために、利根川の水をせき止めて水位(水の高さ)をほぼ一定に保つ操作をしています」とあります。
 さらに「川の上流などで雨が降って川の水が増えた場合にも上流の水位が上がりすぎないようにしています。荒川にかかる秋ヶ瀬取水堰や元荒川にかかる末田須賀堰も同じように水位を一定に保つ操作をしています」とあります。

 用水路に安定的に水を供給するためと防災のための調整弁ということですね。秋ヶ瀬取水堰志木市の荒川、末田須賀堰は岩槻市の元荒川にあり、後者は大場小(現、武里西小)から西方向へ約3・3キロの位置にあります。
 利根大堰は昭和40年(1965)10月30日に工事に着手し、翌昭和41年4月11日に定礎式(礎石を据えて建物の工事を始める意)が行われました。7月7日には皇太子殿下(現、上皇陛下)が利根導水路事業を視察なさっています。
 よくよく考えると、利根川と荒川の治水が改善されるようになり、洪水の頻度が圧倒的に少なくなったからこそ、昭和30、40年代に東京都、埼玉県における日本住宅公団による団地造成が加速的に進み、東京近郊に〝郊外形成〟がなされたように思われます。
 もしかしたら施設見学の折にそんな説明を受けたのかもしれませんが、記憶に全くありません。大人の今でこそ、こうした社会インフラの有効性や面白さを感じるようになりましたが、当時は生きるのに精いっぱいでしたから。