これは何歳ぐらいの頃だったか。
昭和44年(1969)生まれの弟がまだようやく補助輪付きの自転車に乗れるようになった頃だから、昭和47、48年頃のことでしょうか。私がせいぜい白百合幼稚園年長か大場小1年の時です。
弟の自転車は補助輪が付いていましたが、何とブレーキが付いていませんでした。小さくてフレームとタイヤの太い、子供用の自転車です(写真参照のこと)。
確か同じ9―12の幼なじみであるK君(名前はT)と私と弟と3人で団地商店街へ出かけました。なんでそちらの方面へ出かけたのかはよく覚えていません。
3人で9―12からてくてく歩き、近隣公園の中を通過します。弟は、くだんの自転車に乗っていました。そんなに速度を出せる自転車ではなかったので、私とK君の歩行速度とちょうどよかったのでしょう。
7街区に入り、東武ストアの前を通り、スロープを上へあがり、けやき通り(当時はその名称を知りません)を下に歩道橋を渡り、2街区の団地商店街に入ります。右側の店舗(一心堂、団地書店、おづつみ園など)の前を過ぎます。
するとここから1階へ向かって緩やかなスロープになっています。確か下り切ると一旦平らになって、その下にも最初より少し短いスロープがあります。下り切ったところの商店街のど真ん中には噴水があり、噴水の後ろ側に屏風のようにめぐらした壁がありました。
私はその時、何となく不安な気持ちを抱きました。
そう、弟の自転車です。
弟はスロープを下り始めました。
その時「自転車を下りて押した方がいいよ」と言葉をかければよかったのでしょうが、すでに自転車は私たちを追い越していました。
その時の記憶は映像のように今も記憶されています。
自転車はどんどん速度を増して、ガタガタしながらスロープを下って行きます。そして一旦平らな部分に下り切りましたが、さらにその下のスロープにも突入し、最後の壁にまで行ってしまいました。
ドカン!
スロープ周辺には買い物客が結構な人数いました。しかし、その隙間を縫うように自転車は最後の壁まで走ってしまいました。
大人達が弟に寄ります。弟は大泣きしていました。
弟は自転車を押して私たちのところに来て「帰る」と言います。
今振り返ると、慣性の法則で自転車が激突した瞬間に体も前のめって頭を壁に打ち付けてもおかしくない状況でしたが、幸い頭は大丈夫だったようです。
K君は「1人でも帰れるよ」と言いました。
当時は体が小さく、子供の足で団地商店街まで来るのは少し遠いように感じていましたから、(折角ここまで来たのに)という気持ちだったのかもしれません。
しかし、私は不安になって、泣いている弟と「帰るよ」とK君に言いました。K君も仕方ないと3人で9―12へ戻りました。
本来であれば、私の記憶から消え去ってもいい日常風景だったはずでしたが、弟の壁激突事故があったため、強いインパクトを伴って記憶に刷り込まれました。
弟が激突に至るまでの記憶は本当に映像のようにおぼえています。
ブレーキのない自転車は危ないということを強制的に学習させられました。私がもっと機転の利く兄貴であれば、とっさに弟の自転車をつかみ、激突を防ぐことができたのでしょう。弟に(悪かったな)という思いも実は今もあります。
当時、団地商店街の真中には憩いのようなスペースがありました。屏風のような人工の壁があって、その前に池があり、噴水が上がるようになっていました。これは後に全て撤去され、ただの広場に変わりました。
最近、弟と食事をした時、その話をしました。
しかし、当の本人は「覚えていない」と驚いた様子でした。