ここは武里団地9街区

丙午生まれの昭和回想

園長先生の遊戯論―武里白百合幼稚園9―

 

武里白百合幼稚園お遊戯会。後列左から2人目がQ街区(昭和46年12月、Q街区所蔵)

 

 「先生」
 こう呼ばれる方々の存在は、還暦の大台に近づきつつある〝元子供〟の自分に未だに小さからぬ光と影を投げかけているように思います。
 学校という場では特にそのように思います。幼少期の自身が受けた教育というものがどういうものであったのか気になるようになりました。
 教育(教科ではなく、指導面の方)というのは先生の人格そのものだと改めて思います。
 先生の表情、口調、態度、言葉…。

 自分に向けられる眼差し、かけられる言葉が子供にはどれほど嬉しかったり、励みになることか。悲しいことにその真逆もあるわけですが…。
 小学6年生の折に体罰教師にビンタを張られトラウマになっています。冤罪だけに余計です。中学2年の折に担任の女性教師に声をかけられ、うれしかったこともあります。小学生を殴る先生、中学生に優しい言葉をかける先生。その表情や言葉は今もありありと記憶しています。
 前置きが長くなりましたが、武里白百合幼稚園のお遊戯会のことを書きたいと思います。富山詮之園長先生が遊戯について熱い思いを抱いておられたことがわかりました。例の「武里白百合幼稚園PTA機関紙 しらゆり」にはさまれて富山園長先生の「幼児期の遊び」という文章が残されていました(写真参照)。

 

富山詮之園長先生の遊戯論「幼児期の遊び」(Q街区所蔵)

 

 園長先生の論旨は3段落目の「内から盛り上がってくる強く激しい衝動を、活発な活動や創造として解放する。それが遊戯というものではないだろうか」のくだりに全てが込められていると思います。
 それを受けて保護者の思いも強かったことがわかります(写真参照)。特にPTA役員をなさった方だから余計かもしれません。赤枠で囲った箇所を読んでいただきたいのですが、親として子供の成長ぶりを感じ取ったことがわかります。

武里白百合幼稚園PTA機関紙「しらゆり」第8号より。最下段の保護者の投稿に遊戯のことが触れられる。先生方の大変さがわかる(Q街区所蔵)

 元園児の〝当時者〟として振り返ってみます。冒頭に掲げた写真のように確かに白百合幼稚園はお遊戯が結構あったように思います(他の幼稚園とは比較不能ですが)。

 記憶にあるのはお面です。この狐のお面はうっすらと記憶があります。どんなお芝居だったのか、何を演じたのかは忘れてしまいました。別稿で触れましたが、黒田節は覚えています。これは稽古の段階で他の組の先生に「回る方向が違うっ!」とピシャリと言われたことを今でも覚えています。
 50代の今日、お遊戯に関して鮮やかな思い出として脳裏に残されているかというと、実はうっすらと記憶の断片としてあるだけです。正直なところ「やらされた感」もなくはありません。自発的ではありませんし。
 しかし、おとなの強制力が働いたとは言え、こうした思い出がある、ないの差は大きいようには思います。
 当時の周囲のおとなたち(両親、先生方)がいろいろと考え、私たちにしてくれた、その事実。おとなたちの自己満足のようなところもあるかもしれません。
 とは言え、私たちが自覚していない部分で何らかの糧にはなっているようには思います。