ここは武里団地9街区

丙午生まれの昭和回想

2人野球

 当時の子供たちの人気スポーツというと、圧倒的に野球でした。

 巨人の王、張本、柳田、末次、柴田、高田、堀内、小林、阪神の田淵、中日の高木、広島の衣笠などが活躍してました。

 広島がリーグ優勝した時は一時的にカープの赤帽子が増えました。私の弟がカープの真っ赤な帽子をほしがり、母親に勝ってもらい、しばらくかぶっていた記憶があります。

 自分は中日、巨人の帽子をかぶってました。

 団地にはうってつけの広場があります。父親や近所の友達とキャッチボールをするのは当たり前の日常風景でした。

 当時、地域の少年野球チームにレインボーズというリトルリーグのチームがあり、入団したいなと思ったこともありました。

 確か大場小4年(昭和51年、1976)の時、クラスメイトで快活な性格のT君が入ってました。チームカラーは赤だったか。T君がチームマークの付いた赤帽子をかぶってましたから。

 結局、私が入団しなかったのは日曜も練習と聞いたからです。あまり活動的ではない私は、日曜は休みたいなと思い、躊躇しました。

 小5の時、クラスメイトのI君とは、谷中商店街にある「たけや」という駄菓子屋さんの裏の方にあった子供広場で野球の練習をするようになりました。

 ほぼ毎日、放課後にバット、グローブ、軟球を持って落ち合います。

 たまに広場隣りの田んぼに球が落ち、裸足で拾いに行ったことも。植えたばかりの苗を少しダメにしてしまい、おとなに注意されたこともありました。

 練習メニューはキャッチボール、バッティング練習、ノックによる守備練習。

 まあ2人だけの練習ですから、向上したのかというと、さほどではなかったかと思います。ある日、I君がK君(あだ名は「かっちゃま」)というクラスメイトに誘われ、野球の試合に出たそうですが、からきし打てなかったと聞かされました。

 そのI君を誘ったクラスメイトのK君からそう聞かされ、レベルの低さを宣告されたような気持ちで一種のショックを受けました。

 広場での練習もやがてなくなりました。

 大勢の中での切磋琢磨がレベル向上には大事だと、大人の今は考えられます。

 しかし、子供の私にとって野球の季節が終わりを告げた時でもありました。

 5年1組の教室でプロ野球のテレビ観戦の話題が出て、投手のできがどうで、打者がどうでという話に私が知識的ついていけないということもありました。

 特に転校した後、ほとんど野球をすることがなくなりました。