ここは武里団地9街区

丙午生まれの昭和回想

引っ越し、その3

 

8街区を背に9―1方向を見る。右奥に9―15、左奥に9―14が立つ。私自身の性格の根っこの部分はこの武里団地で形成されました(2011年8月8日、Q街区撮影)

 昭和52年(1977)8月下旬(2学期の開始が5日ほど早い)、群馬県桐生市立西小学校に転入しました。
 クラスは5年3組でした。当時「5年3組魔法組」という子供向けのドラマが放映され、それと同じだったのでうれしかったことを覚えています。
 しかし、うれしいと思ったのもつかの間。前にも書きましたが、私は転校先の桐生市立西小学校に全くなじめませんでした。
 以下のことを記すのは武里団地の環境との比較を示すためです。
 なじめなかった原因は〝いじめ〟です。民俗学者宮本常一さんが奈良県の〝子柄〟の悪さを指摘しているのをどこかで読みましたが、西小の同級生は喩えるならまるで〝小さなヤクザ〟でした。
 実家が畳店だったSという男の子は鋭い目つきをしていて、「気にいんねえんなあ」「リンチしてやる」などと事あるごとに口にしました。言葉遣いがまるで違います。

 大場小学校(5年1組に限りますが)では男の子は女の子に「〇〇さん」、逆の場合は「〇〇くん」と呼び、男の子同士はあだ名で呼び合いました。ところが、西小では呼び捨て、もしくは悪口のような呼び名がまかり通っていました。
 西小は堤町、宮前町、宮本町の住宅街のほか、本町・末広町・小曽根町・永楽町など商店街区の子供で構成されていました。そのため裕福な家が比較的多く、貧しい家の子は見下される傾向にありました。

 特に商店街区の子供は早くから大人と接する機会が多いせいか、性格に抜け目がなく、言葉にも人を気遣うという意味でのオブラートがありません。人を出し抜き、身体的特徴を平気で指摘し、悪口に変えました。

 この相手を出し抜くという桐生の人の気性は〝機場(はたば)〟に由来するという見解があります。「うちの方が同じ物を安くで織れるよ」と取引先を奪う場面が多かったと聞きます。小天地の競争原理で培われ、歪んだ形で子供たちに表象されたのでしょう。
 転校まもない教室でショッキングな体験をしました。ある男子に引っ張られ、ある女の子の席の前に連れて行かれ、「醜いだろう?」と同意を求められたのです。びっくりした私は同意も否定することもなく、ただ黙っていました。

 その女の子はKさんと言い、クラスで孤立していました。その子に触れると「バッキン」(ばい菌?)と騒ぎ立て、子供同士でバッキンを移していきました。指で鍵か何かの形を作るとバッキンが移ることがありません。
 当時のことを振り返り、そのKさんの心情を思いやると、かわいそうでなりません。きっとトラウマになっているだろうと思います。西小時代を思い出したくもないだろうと想像されます。ある日、担任のT先生が男泣きしてKさんへのイジメをやめるよう切々と訴えました。

 「何だ!Tのヤツ」と男泣きの授業が終わった後、そう男子児童のTが吐き捨てました。先生にも呼び捨てが当たり前でした。以降、私の見る範囲ではKさんへの露骨なイジメはなくなりました。

 しかし、今度は別の女の子がターゲットとなりました。男の子たちが彼女たちの容貌をあげつらって悪口の歌を作り、合唱し、何人かの男子が足で床を踏み鳴らします。家がテーラー店だったSさん、またTさんなどがやり玉にあげられました。勉強のできるタイプの女の子たちはそれを黙って見ているわけです。

 私自身もイジメの標的になりました。団地育ちのおとなしい、バカ正直な私などは格好の餌食でした。転校初日に考えられないのですが、学級委員(男女1人ずつ)にさせられました。名前も事情もわからないし、周りも私のことをよく知らないのに、なぜ担任のT先生がOKを出したのか理解できません。クラスの連中は単に面倒な役を転校生に押し付けただけという狡猾な思惑が見え隠れします。

 当時の私は学級委員をやれるような性格ではありませんでした。クラスの連中を並ばせたり、号令をかけるような玉ではありません。黙っていると「何やってるんだ!」と周りからドやされ、何度も泣かされました。

 家が鮮魚店を営む前述のTという男子はことあるごとに私を悪く言い、嘲笑の対象とし、地獄のような日々が続きました。ある日、給食の時間にこちらを振り向き「食べ方が汚い、きったね~」と目立つ声であざけりました。

 SやKといった男子からも言葉の暴力を浴びせられ、嫌がる私に無理矢理プロレスの技をかけ、また組み伏せて唾液を私の口に落としたりと、ことあるごとに泣かされ、次第に学校に行くのが嫌になりました。

 ある日、床にうつ伏せにされ、その上に4、5人に勢いよく乗っかかられ、一番下にいた私は息ができず、苦しく、最後泣いてしまい、しばらくそのままうつぶせになっていたことがあります。出口のない地獄の日常をどうにもできない自分の情けなさと悔しさのような感情が去来しました。

 全くひどいクラスでした。男の子同士の抗争が起こったことも。ある日、Sというちょっと粗暴な男の子を男子たちが集団で取り囲み、トイレに追い詰め、喧嘩になったりと本当にひどいものでした。
 荒んだ環境でしたが、それでも救われたのは親友ができたからでした。その名はT君と言い、実家は塗装業を営んでいました。
 T君は子供ながらも生協宮前店(今はもうない)で買い物をし、またフライパンでホットケーキを焼きます。彼の家でごちそうしてもらったことがあります。また機械をいじることが好きな理系少年でした。
 彼は家に鳩を数羽飼っていました。ある日、彼の家に遊びに行くと、彼は身軽にはしごをタッタと上がり、軒下の鳩舎のドアを開け、鳩を追い出して大空に放ちました。
 その時、私はT君の姿に感動しました。武里団地にはいなかったタイプでした。その後、T君とは鉄道や自転車で遠出(赤城山、日光・足尾、浅間の鬼押出しなど)をするようになりました。

 ただ彼は大人になったら家業を継ぐという運命を背負わされていました。

 そのT君もいじめられる場面があり、私とT君は家出を考えるようになりました。桐生市内に「丸山」という小さな山があります。丸山の麓にあるT君の家の近くの材木屋で木材を買い、T君の家の前で小屋を作ったことがあります。その小屋の中に2人で入って丸山山頂まで担ぎ上げました。

 そして小屋の側に大きな穴を掘って、その上に開閉できるドアを設置しました。家出をし、半年ぐらいそこに寝泊まりした後、日本全国を旅するつもりでした。そんなことを2人で話し合いました。しかし、家出計画も親に見つかり、頓挫しました。

 6年生の時はクラス変えなしで6年3組に進級しました。担任は変わり、Sという男性の先生でした。この先生はビンタを張る体罰教師でした。大人になった今日考えると、問題児の多い3組を担当させられたのでしょう。
 以上のことを記したのは、桐生市での環境と、武里団地に住んでいた頃の環境との違いを明示するためです。

 私は学校の関係で25歳から30歳に県外に住んでいましたが、就職のため桐生に戻りました。しばらく生活するうちにしばし忘れていた10代の頃に抱いていた劣等感、忌まわしい記憶が一気に思い起こされたことを覚えています。
 桐生の人々、会社組織の人たちの言動が、否が応でもそうした現実に引き戻すわけです。会社の上司・先輩には何度も脅され、足を引っ張られ、独特の陰湿さを感じました。(ああ、桐生に戻ったんだな)とあきらめの気持ちで痛感したことがあります。

引っ越し、その2

ありし日の武里団地9―12。左下に第二白百合幼稚園。ここから引っ越したことが私の人生の分岐点でした。引っ越さずに団地でそのまま成長していたらどのような人生を歩んだのだろうかと考えることがあります(2011年8月8日、Q街区撮影)

 埼玉県春日部市武里団地に住む私の家族が群馬県桐生市の父親の実家に入ることになりました。
 今は民主主義の時代ですから、桐生市に住む叔父さんたちのいずれかが実家に入ってもいいわけです。そうすれば、私たち家族も引っ越すことはありませんでした。
 ところが、半世紀前なので家父長制の名残りなのか私の父親は「長男だから」という理由で、どうも押し切られたように思われます。
 引っ越すことが決定しました。
 母にそう告げられました。直後の私の心境を振り返ると、少し不安はありましたが、引っ越すのが嫌だとは思いませんでした。ただ両親が引っ越しを決め、それを受け入れていただけというものでした。
 それでも引っ越しの日が迫るにつれて次第に引っ越すのが嫌だなという気持ちが強まって行きました。とは言え、当時の私は、それに対して抵抗したり、回避するための行動を取ることもしませんでした。

 東京で生まれ育った私の母(当時35歳)は、北関東の最果て(イメージ的に)の桐生へ引っ越すのが嫌で嫌でしようがなかったらしく、毎日Iさんのおばさんのところへ行って、「引っ越したくない」と泣いていました。
 当時の私はそのことを全く知りませんでした。この事実は2011年8月に取り壊し前の9―12でIさんのおばさんに再会した折に聞かされた話でした。その話を聞いた時に母親の心情を思うと何とも言えない気持ちになり、(かわいそうに)と思わずにはいられませんでした。
 引っ越し作業は、父が弟(当時、志木市在住の叔父)のトラックを借り、荷物を載せて運びました。

 私の家が桐生に越すに当たってはいろいろと困ることが生じました。まず父親の仕事です。父は自営業(出版業)でした。仕事の拠点を東京に置いており、桐生へ移ると仕事に支障が出ます。
 しかし、祖父母の世話はしなければならない。武里団地に住む私の家族は大きな変化を強いられました。私と2年生の弟は転校しなければなりません。
 結果的には、一家挙げての引っ越しとはならず、実質的には母親と私と弟2人の計4人が桐生へ引っ越すことになりました。父はそのまま武里団地を借り、平日は団地に住み、月に2、3度、桐生へ来ることになりました。
 いわば、二重世帯という形になりました。経済的な負担が少なくなかったと推察します。大人になった今の自分が思うに、家族としてこのような形が果してよかったのかどうか疑問に思います。結局、父親は借金を重ね、私が19歳の時に両親は離婚しました。

 寝たきりの祖父母は私の母が世話をしました。しかし、2学期を迎える前に立て続けに亡くなりました。また引っ越すわけには行かず、そのまま桐生に定住しました。

 今思うと、桐生への引っ越しは、うちの家族が犠牲になったというわけです。

引っ越し、その1

ありし日の9街区。手前から奥へ9―10、9―11、9―12、9―13、9―14、9―15が見えます。どこまでも懐かしい風景です(2009年7月25日、Q街区撮影)

 武里団地を引っ越すことになりました。昭和52年(1977)7月のことです。私は春日部市立大場小学校5年1組の1学期終了と同時に引っ越しました。
 移った先は群馬県桐生市です。足尾山地の南端の山並みに囲まれる盆地状の地形に市街地が発展し、渡良瀬川と桐生川の流れる山紫水明の地です。
 絹織物業で栄え、私が引っ越した当時も長期衰退(日米繊維交渉の結果)に入っていましたが、最盛期の名残りがまだ色濃く、通学途中で「ガシャンガシャンガシャン」と力織機(りきしょっき)の音が盛んに漏れ聞こえました。
 こう書くと、いいところに引っ越したと思われるかもしれませんが、その市民性は〝新しもの好き〟〝派手好み〟と言われながらも古い因習も強固に残る、少し独特の地域でした。転校してからの私にはつらい日々の始まりでした。

 さて武里団地を引っ越す人たちはどういう理由で出て行ったのでしょうか。いろいろと理由が考えられます。
 ①一戸建ての住宅を建てたから。
 ②仕事の都合、就職や転勤によるもの。
 ③団地生活(隣近所とのトラブル)が合わなかったから。
 ④遠方の学校に進学したから。
 ⑤その他
 私の家が引っ越した理由は⑤です。①~④のどれもあてはまりません。私の父親は桐生市出身でした。父方の祖父母が前後して倒れ、寝たきりになったため、長男である父親が実家に入ることになりました。
 うちが実家に入ると決まるまで、親戚会議が何度か開かれました。父には兄弟が5人おり、そのうち桐生市在住が男3人。いずれも所帯持ちでした。
 私の父親は長男だからという理由だけで、埼玉から引っ越すことに抵抗があったようであり、かなりもめたようでした。
 話し合いの過程で恐らく私の母親も入れて話し合う必要が生じたのでしょう。5月か6月頃、両親が桐生へ出かけることになり、幼い弟2人も連れて行くことになりました。私1人だけで団地に1泊(確か)することになりました。
 母親は私のことが心配だったようであり、担任の関根岳是先生によろしくお願いしますと連絡を取ったのだと思います。そのことは教室で関根先生が「ご両親が群馬へ出かける関係でM(私)は1人になる。みんなよろしく」と話しました。
 関根先生は「K(私の片思いの人)がMのところへ行ってやれ」と冗談混じりに思いもかけぬ言葉を言いました。他の男子が笑って「ヒューヒュー」とはやし立てました。Kさんもパッと振り返り、笑顔で私の方を見ました。
 私は真赤になりました。まるで心の内をみすかされたようでもあり、恥ずかしいのとうれしいのと感情がないまぜになった気持ちになったことを今でも覚えています。
 その夜はお向かいのIさんのお宅で夕食をごちそうになりました。カレーライスを作ってくださり、おかわりして4杯平らげ、Iさんのおばさんとお姉さんに驚かれました。
 そのカレーライスは黒い粒が中に入っており(恐らく黒コショウか何か?)、スパイシーな感じでおいしかったからでした。

事故に遭う

谷中商店街入口から9―10を見る。その前の車道でバイクに追突された。9―10ももうすでにありません(2009年7月25日、Q街区撮影)

 あれはいつの出来事だったのか、もう忘れてしまいました。春日部市立大場小学校1、2年生ぐらいかなと思います。即ち昭和48、49年、西暦1973、74年頃です。

 9―8か9―7の前辺りの車道右側を東へ向かって自転車で走行している時、後ろからオートバイ(確かカブ)に追突されたことがありました。

 あの時の衝撃は今でも覚えています。
 グワシャ、ガシャ、ガシャ―。
 こんな音と共に天地がひっくり返って、一瞬、自分に何が起きているのかもわかりませんでした。気づいてみると、地面に放り出されていました。擦り傷などのけがをしていました。

 私は泣いてしまいました。ナショナル製の自転車は路上に倒れていました。
 私をひいたバイクに乗っていた若い男性は私を立たせ、「大丈夫?」と声をかけた後、バイクに乗って立ち去ってしまいました。あろうことか警察も呼ばず、病院に見せようともせず、そのまま行ってしまったことに今でも憤りを感じます。  

 周りに大人も子供もいて、様子を見てましたが、特に助け舟はありませんでした。まあ今でいうひき逃げという犯罪となります。
 もちろん当時の法律でもひき逃げはひき逃げです。

赤い矢印が事故現場。9街区テニスコート前にあった9街区と8街区案内図より。9街区解体に伴い、この案内図も撤去されました(2009年7月25日、Q街区撮影)

 しかし、当時は相手をひいて、けががなければ(車対人でも)、立ち去ってしまうというドライバーが往々にしていました。今の事故感覚と当時のものとは多少違うところがあったように思います。接触したという程度にしか捉えていないと言うか…。
 私の自転車は後輪部分がひしゃげてしまい、ペダルを回転させることもできません。仕方なく私は自転車を押して9―9と9―5の間、9―10と9―4の間を通って、とぼとぼと9―12に帰りました。

 家で母親に事情を話したところ、「えーっ」と驚かれました。しかし、母親は私の様子を見て、特に警察に通報することもせず、私を病院に連れて行くこともしませんでした。
 私をひいた人は若い男性でした。顔に見覚えもありました。確か谷中商店街の理容店に勤めていた人でした。
 幼稚園の頃の行きつけ理髪店は団地商店街の丹頂バーバーでした。何度か行った覚えがあります。しかし、9―12からだと谷中商店街の理髪店の方が近いので、途中からそこに通うようになりました。
 団地周辺の商店街は、武里商店街、千間堀商店街、そして谷中商店街があります。団地商店街にももちろん買い物に行くのですが、住む団地棟が団地エリアの端っこにある場合、エリア外に形成された商店街に買い物に行くこともありました。
 その理髪店は谷中商店街の中にありました。母親は、私と弟を連れて散髪に行きました。そこで修行している若い理容師3人の内の1人でした。
 再び理髪店で顔を見ることがありましたが、私は何も言いいませんでした。向こうも少し気まずいという感じだったようには思いますが、特に向こうから気遣うような言葉も何もありませんでした。
 あれから半世紀が経過しました。はねた男性は子供1人はねたことなどとうに忘却の彼方かもしれません。しかし、はねられた方はいつまでも被害意識が消えません。
 懐かしいというより、苦い記憶です。

ハワイからの絵はがき

 昭和49年(1974)の春日部市立大場小学校2年2組の時、同級生の男の子がハワイ旅行に出かけました。
 そのことが強い印象を伴って記憶に残っているのは、ハワイから絵はがきをもらったからです。外国から絵はがきをもらうなど初めての体験でした。
 その男の子は確かH君と言いました。2年2組の時の友人は8―1のI君、7―1のA君、そして何街区か忘れましたが、H君でした。
 H君は端正な顔立ちをして、利発そうな子供でした。私は今でもその顔と声を覚えています。別稿「開校記念日の謎」で掲載した集合写真で言うと、最後列の右から3人目の男の子です。ちなみにA君はやはり最後列の右から5人目、I君は前から3列目の右から5人目です。
 ある日、教室でA君とH君が私の目の前で言い争いをしていたことを覚えています。私が両方と遊ぶ約束をしたため(恐らく)、私と遊ぶのは自分だと主張して起きた言い争いでした。
 そのことを帰宅後に母親に話したら、母親は「へえ、そうなの」と(ほほ笑ましい)といった感じで笑っていました。
 H君は夏休み(のはず)にハワイ旅行へ出かけました。ハワイ旅行と言えば、今でこそありきたりの外国旅行となりましたが、昭和49年当時では〝高嶺の花〟です。まあ宇宙旅行に行くようなもの。それぐらい遠い異境の地でした。
 「絵はがきが来てるわよ」と母親に言われ、その絵はがきを受け取りました。H君がハワイで投函した絵はがきでした。
 「ハロー」(ディアではなかったと思う)という挨拶で始まる文面でした。残念ながら、その絵はがきはもう手元にありませんが、当時の私は、外国切手が貼られて英語の入った異国情緒の漂う絵はがきを手にしながら、何か遠い遠い手の届かないような海の向こうの外国から送られてきたことに不思議な感覚を持ったことを覚えています。
 絵はがきは片面がハワイの風景写真(何の風景か忘れました)、もう片面の半分に私の住所・名前、もう半分にボールペンか万年筆かで横書きの文章が書かれていました。
 文面は忘れてしまいましたが、恐らくハワイでの旅行先の観光地や景色のこと、それを満喫しているようなことが書かれていたのだと思います。2学期での再会を約したような文面ではなかったのかと推察(憶測の域です)されます。
 その後、3年5組へ進級し、A君とまた同級生となりましたが、H君とI君とはクラスが分かれてしまいました。I君とは4年1組と5年1組(クラス換えなし)の時にまた同じになりましたが、4年以降、H君とA君とは会うことはありませんでした。
 ハワイというと、H君の絵はがきを今でも思い起こします。

 あの昭和49年度の1年間、同じ教室で同じ先生に教わった同級生たち。あれから半世紀が経過しようとしています。

 H君はじめ2年2組のみんなが元気でいてくれることを祈るばかりです。

「赤目」とIさんちのおじさん

 春日部市立大場小学校3年か4年生の頃だったように思います。即ち昭和50年(1975)か51年頃のことです。白土三平先生の漫画作品「赤目」を読みました。

 白土三平先生(1932―2021)は「カムイ伝」「カムイ外伝」「忍者武芸帳」「サスケ」などで著名な漫画家です。
 「赤目」は、武里団地9―12の30◇に住んでいた真向いのお隣のIさんのおじさんが貸してくれました。別稿「締め出し」で助けてもらったおばさんの旦那さんです。
 私が「歴史ものが好きだ」と聞いて、わざわざ貸してくれたということを今でも覚えています。「赤目」は確か函入りのハードカバーでした。 

白土三平先生の「赤目」の一部

 「赤目」という作品は、領主の圧政に苦しめられる農民たちの姿を描いたものです。領主に殺された妻の仇を取ろうと、夫が忍者修行に励むのですが、挫折した後、浪々の挙句に初老の僧体となって村に再び現れ、一揆を扇動し、領主の住む居城を落城させるという復讐譚です。「赤目」は兎のことですが、作中では象徴的な役割をします。
 この「赤目」を私は単行本で読みました。現在は文庫版(私は小学館文庫で所蔵)で読むことができます。あとがき(内記稔夫氏)によると、昭和36年(1961)に貸本漫画として刊行。その後、昭和41年(1966)にコダマプレス、同43年に集英社からともに新書版で刊行。同44年(1969)に筑摩書房からA5判函入り上製本白土三平集』に収録され、さらに昭和50年(1975)に汐文社からB6判で出版されました。
 私が手に取ったのは恐らく昭和44年筑摩書房刊行の『白土三平集』である可能性が高いです。函入りであること、ハードカバーであることが一致しています。当時の気持ちを言葉にすると(きちんとした装丁・製本)ということを感じていました。
 「赤目」は白土先生らしい作風です。白土作品は「唯物史観」が描かれているというので、半世紀前に学生運動を起こした団塊の世代(昭和22~24年生まれ)に広く読まれました。唯物史観とは思想家カール・マルクスの唱えた歴史の見方(歴史は法則的に発展するという発展段階説)です。簡単に言えば、歴史は階級闘争による生産手段の所有の移行(領主→資本家→労働者)で説明できるということになります。
 1970年代までの歴史研究は、この唯物史観による影響がとても大きいものがありました。年貢を取り立てる過酷な圧政者、搾取され貧しさに喘ぐ農民、という対立構図です。江戸期が将軍による絶対独裁、明治期が産業革命と資本家の時代、次に来る時代は労農独裁だろう、と。ソ連、中国が成立し、時代の流れが合致するところがあり、そういう風に見え、唯物史観が支持されたのだろうと思います。

 白土先生も自身の作品にそうした歴史観を取り入れた可能性があります。
 しかし、1990年代にソ連と東欧社会主義政権が崩壊しました。蓋を開けたら独裁と粛清(大量虐殺)という悲惨な事態が明らかとなりました。欲望の塊であるはずの人間は、理想や純粋さを保ち政権運営できるほど、高尚な生き物ではありませんでした。

 当時の私は「赤目」の世界に魅了され、一気に読みました。その後も「読みたい本があったら貸してあげる」というので、お向かいのIさんちの書棚前に座り込んで借りる本を選んだことを覚えています。書棚は確か玄関を入って廊下に置かれていたように思います。だから薄暗い中で、選書していたような記憶があります。
 Iさんのおじさんがなぜ「赤目」を持っていたのか。世代的には団塊の世代より上の世代のはず。戦前の生まれだろうと思われます。書棚を見る限り、Iさんのおじさんは「赤目」以外の白土作品を持っていませんでした(確か)。
 Iさんのおじさんは絵がとてもじょうずでした。確か私の弟が第二白百合幼稚園時代に出しもの(お遊戯?)か何かで「泳げたいやきくん」を上演するというので、Iさんのおじさんが長さ50センチぐらいの「泳げたいやきくん」の絵を画いて作成しました。
 厚紙に画かれた絵は「泳げたいやきくん」そっくり、というかそのものに画かれ、薄茶に着色もされてました。この「泳げたいやきくん」は昭和50年(1975)に子供向けテレビ番組「ひらけポンキッキ」の中で子門真人さんの歌う児童向けの歌であり、これが大ヒットしました。歌詞に合わせ、バックにアニメも映り、ここに出てくる〝たいやきくん〟の絵がじょうずに画かれていたわけです。
 うろ覚えなのですが、Iさんのおじさんは、もともと画家志望だったのかもしれません。子供の私とIさんのおじさんとの接触は、ごくごく少なく、顔を見たのも数回という感じです。「厳しい人」という風に聞いていたのですが、私が接触した限りではそうした印象はありませんでした。「赤目」を所蔵していたのは、絵の参考のためだったのでしょうか。
 私が成長する過程で、白土三平作品を好んで読むようになったのは、この少年期の原体験とアニメ番組「サスケ」「カムイ外伝」の影響があることは確かです。

 良書を貸してくださり、どうもありがとうございました。

川口グリーンセンター―大場小の遠足⑤―

 前回は昭和49年(1974)5月18日、春日部市立大場小学校2年2組の折、大宮公園の遠足に出かけたことを書きました。
 写真には母親によるボールペンの裏書きがあります。「49.5.18 大宮公園」とあります。実はもう1枚、同年月日の違う場所の裏書きのある写真があります。それが今回掲示の写真です。

春日部市立大場小学校2年2組、遠足時の集合写真。昭和49年(1974)5月18日、川口グリーンセンターの滝・大噴水の前で撮影。前から3列目、右から4人目が私(Q街区所蔵)

 噴水が特徴的です。これは川口グリーンセンターでの写真です。その名の通り、埼玉県川口市新井宿700にある同市民憩いの場です。恐らくバスで行ったのでしょう。
 大宮公園と川口グリーンセンターの2枚の集合写真を照合し、児童たちの服装を確認すると、どうも服装が同じです。裏書きと服装の一致から、やはり1日で2カ所に遠足に出かけたという事実が浮かび上がります。
 遠足というと、普通は1日に1カ所に赴き、そこでのんびりと見学、昼食、自由時間などを取るものかと思います。2カ所とは、ずいぶんと強行軍だなと思います。
 写真の私ですが、前から3列目、右から4人目に立っています。なぜだか帽子を斜めにしてかぶっています。私の真ん前に片思いだったYさんがいます。

 写真を改めてよく見ると、3年5組の時に同級生だった学研マニアのT君の姿があります。私の左の左に顔だけのぞかせています(最後列)。
 そのT君の左の左にやはり顔だけのぞかせている男の子がいますが、この子はA君といい、下の名前が私と同じT(確か漢字も同じ)と言いました。彼は10階棟の7―1の住人でした。

 確か1度、A君を訪ねようとして7―1に遊びに行ったのですが、知らないおばさんに7―1の出口(2階吹き抜け)まであっとう間に追い出されてしまった記憶があります。当時は子供だから抗うこともなく、そのまますごすごと帰りました。あのおばさんは一体何だったのだろうかと今も思うことがあります。
 実はこの川口グリーンセンターに関する記憶はほとんどありません。しかし、私は「川口グリーンセンター」という名前だけはずっと記憶していました。
 写真の噴水ですが、ホームページ「川口グリーンセンター」の園内マップによると、「滝・大噴水」とある場所です。

現在の滝・大噴水の様子

 噴水が上がり、滝が流れています。現在は時間帯によって水を出しています。運転時間は午前10、午後12、2時の各30分とあります。半世紀前も運転時間があったのか、またあったとして同時刻だったのかはわかりません。
 私たち児童の手前の方には花壇広場があるはずです。花壇広場の左手にはコミュニティ広場、食事処があり、花壇広場よりさらに手前にグリーンプラザや管理事務所棟などがあります。

 グリーンセンターはそのほかにも大芝生、芝生広場、白鳥の池、バラ園、ミニ鉄道、昆虫の森、冒険の森などのエリアがあります。子供を遊ばせるには持って来いの場と言えるでしょう。
 この5月18日に咲く植物は、令和5年の現在だと、ムシトリナデシコマツバギク、ハンカチノキ、ヤマボウシ、サツキなどです。半世紀前にこれらの植物があったのかどうかはわかりません。
 川口グリーンセンターのマップを見ていたら、子供心をくすぐるアスレチックや展望スベリ台などがあります。こんな年齢になっても展望スベリ台を滑ってみたいなという気持ちにさせられます。