ここは武里団地9街区

丙午生まれの昭和回想

大宮公園―大場小の遠足④―

大宮公園の遠足。昭和49年(1974)5月18日、大場小2年2組の集合写真(Q街区所蔵)

 掲げた写真は、半世紀前の昭和49年(1974)5月18日、埼玉県大宮市(現、さいたま市)にある大宮公園へ遠足に行った折の大場小学校2年2組の集合写真です。
 大宮公園は明治6年(1873)に太政官布達によって公園の候補地として選定され、同18年(1885)に「氷川公園」として開園しました。同年に日本鉄道大宮駅が開業しました。NHKの「ぶらタモリ」でも紹介されてましたが、東京近郊の一大遊楽地というか、氷川神社武蔵国一の宮、大宮の由来)参拝も兼ねて結構な人出で賑わいました。
 昭和23年に大宮公園と改称されました。ここはスポーツ施設(野球場、陸上競技場、弓道場)が集中し、また昭和28年には小動物園も開園し、桜の名所でもあります。
 実は、この大宮公園の遠足に関しての記憶は、ほとんどありません。写真が手元に残されているので、かろうじて大宮公園に行ったということがわかる程度です。
 母親が写真に遠足の年月日を裏書きしてくれていたお陰で遠足の月日もわかります。
 写真の飛行機ジャングルジムには児童の半数が登って、半数が地面に立っています。普通の集合写真と違って、何とも立体的且つアクティブで風変わりな1枚です。
 担任は張谷婧子先生です。地面の右側にいる背の高い女性がそうです。お顔を拝見すると、まだ20代なのかという印象です。張谷先生に関しては、こちらが幼すぎて余り記憶にありません。嫌な思い出はないのですが、私と言葉を交わすなどの思い出の記憶が残っていません。2023年10月に武里西小を訪れた際、教頭先生が張谷先生のことを御存知でいらっしゃいました。
 地面に立っている一番端っこの女の子(名前はSさんだっけか?)は、記憶に残っています。よく発言し、モノをはきはき言う聡明な子の印象があります。
 地面の右から4人目の顔だけのぞかせている女子は、Yさんと言い、片思いの子でした。ジムに乗っている左から2人目の男の子T君(体格がいい)と仲が良くなり(一緒にいるのを見たという程度ですが)、それを見た時にある種のショックというか、大人的な表現をすれば興ざめしたことを覚えています。当時の私は何事も受動的なので、ただそう思ったというだけですね。
 地面側の真中の男の子はE君(下の名前はH)です。4年と5年でも同じクラスメイトになりました。比較的穏やかな感じの子でした。
 その左隣りがI君です。8―1の2階に住んでいました。私はこのI君と仲が良く、ご自宅にも遊びに行ったことがあります。別稿「蜂捕り」「秘密基地」に登場したI君です。やはり穏やかなタイプの子です。私自身がそうした傾向にあるため、どうも私が付き合う友人はみんなそうしたタイプが多いようです。
 このI君の後ろにいるのが私のようです。顔がほとんど出ていません。
 地面の一番左端のジムにぶら下がっている女子はSさん(名前はA)と言います。勉強ができ(雰囲気的にも)、絵がじょうずで(確か肖像画で校外の賞を取った)、比較的穏やかで明るい感じの子でした。このSさんとは4年と5年でも同級生でした。
 ジム側の児童たちですが、真ん中の女の子はHさん(名前はK)と言いました。これという特徴を示すことができないのですが、よく話す子だったように思います。
 ジムの上の左から3人目の男の子はU君と言い、この子は4年、5年でも一緒でした。4年の時に氏家先生に目をかけられた子です。
 一番高い所にいる右側の男の子はD君と言います。親分肌というか、スポーツが得意なタイプの男の子です。確か校庭で男子児童が1列に並ばされ、この子にドッジボールの捕球訓練を受けさせられた記憶があります。
 順番に捕球する訳ですが、ほかの子は結構強い球をほうられて捕れずに何やってるんだと叱られてましたが、なぜか私には手加減して投げてくれて、捕れた時にほめてくれた記憶があります。その時の私はうれしかった気持ちになったことを覚えています。
 D君の前のF君は4年、5年でも一緒になりました。私はこの子とさほど話した記憶がないのですが、なぜ覚えているかというと、生年月日が同じで、互いに驚いたことがあったからです。検診か何かの折、生年月日の書かれた用紙を持って順番待ちしていた時に彼は私の前(名前順)にいて、何かの拍子で話した時にそのことがわかりました。
 ジムの主翼部分の女の子の左側に顔半分しか見せていない女の子はEさんと言い、席も隣りになったことがある子です。眼鏡をかけていたので覚えています。よく話す子で、おとなしかった私とも普通に会話し、笑い、楽しかった記憶があります。
 今となっては遥か遠い記憶です。

 この飛行機ジャングルジムは今もあるのでしょうか?

故郷喪失―武里団地着工60周年記念事業⑪ 講演会―

 講演のまとめです。どこに落としどころを持って行こうかと悩みました。
 次の4点を挙げました。
 ①農村風景の中に突如として出現した巨大な人工の街。武里団地は、全く歴史的脈絡のないところに水田を埋め立てできた町でした。

 近未来を感じさせる団地は、SFドラマの舞台・ロケ地として利用されました。このことは原武史さん(歴史学者)も指摘していますが、私も原さんの本を読む前「ウルトラセブン」を見ながらそう感じていました。例えば、ウルトラセブンの「アンドロイド0指令」「第四惑星の悪夢」「あなたはだあれ?」などです。ロケ地に使われたのは東京の公団住宅らしいですが、DVDで見返す度に懐かしさを覚えます。

 ②当時は最先端のライフスタイル。武里団地は、周辺の農村と隔絶された若い夫婦世帯の居住社会でした。大人には大人の事情があったかと思いますが、そこで生まれ育った子供たちにとっては公園と植栽の豊富な楽園でした。もっとも近隣公園に痴漢が出没し、母親に注意されていたという側面もありました。
 また団地住民は少なくとも外観からは貧富の格差を感じさせません。同じ間取りは「平等」「均質」です。そこに差別がない、また生じにくい。原武史さんが指摘していますが、日本における団地造成は旧ソ連の集合住宅の影響を受けているそうです。

 私は群馬県桐生市に転校しましたが、10代の多感な時期を桐生で暮らす中で、武里団地の頃には全くなかった強烈な劣等感が生まれ、それが長い間自分自身を苦しめることになりました。
 ③和洋折衷の生活様式。まず団地には床の間がありません。和洋どちらかと言えば、〝洋〟の色が濃かったように思います。畳の上に絨毯を敷き、テーブルを囲みました。しかし、押し入れがあり、夜は布団で寝ました。
 団地は、洋式水洗トイレでしたが、地方ではまだ「ぼっとんトイレ」でした。私は水洗が当たり前の感覚でいたので、越した当時のカルチャーショック(トイレに限らず、子供の人柄など)はひどいものでした。
 ④新たに歴史・民俗を持つムラを模造。団地に移住した〈団地移民〉たちは、「祭礼(団地祭り)」「盆踊り(武里音頭)」を作りました。しかし、鎮守「団地神社」を造営しませんでした。年中行事を〝団地サイズ〟で催しました。

 会場でも話したのですが、私に決定的に欠如しているものは民俗学的な体験です。
 ところが、ある群馬の50歳の方(村出身)は、幼少の頃に母親と祖母の養蚕仕事を目の当たりにし、母方の実家に囲炉裏があり、祖父が野良仕事の際に人のし尿を畑の肥やしとして使う民俗学的な世界(江戸時代と変わらない)を身をもって体験しています。
 しかし、私にはそうした経験が一切ありません。このことは〝神不在〟の団地祭りに象徴されているように思います。

 武里団地での生活は、芝生と植栽と公園に囲まれたコンクリートの箱の中の住空間でした。上下水道、都市ガス、洋式水洗トイレ、ステンレスのキッチン、ダストシュート(これは問題があり廃止)、ベランダなど、いわゆる〝文明〟がありました。
 文明はあるけど、伝統文化(床の間がない)が希薄でした。床の間がないということは、掛け軸、生け花を飾れません。お茶を点てるのに様になりません。
 もっとも団地も歳月を重ねていけば、団地には団地の歴史や民俗が生まれて、それらは沈殿する澱のように重層化していきます。
 最後に現状と未来について触れました。
 団地は変貌しています。かつて昭和40年代に憧れの対象だった武里団地はもうありません。周知のように少子高齢化が進み、子供の姿が激減しています。また外国人の居住者も増えました。新たな団地の姿が形成されつつあります。
 原武史重松清団地の時代』の中で作家の重松さんが指摘してますが、団地は2極化しています。ひばりケ丘団地のように自分流にリノベーションをして住んだり、また武里団地の外観のようにデザイナーズマンション風にイメチェンが図られています。
 しかし、一方で寂れつつある団地もあります。都営仙川アパートはホラー映画「クロユリ団地」の舞台となりました。映画「F号棟」もそうですね。
 かと思えば、アニメ映画「雨を告げる漂流団地」のように子供たちを主人公に解体前の団地を舞台にしたSFファンタジーのような作品(もっとも鴨の宮団地は「お化け団地」と呼ばれてますが)も制作されました。
 揺れる団地像と言ったところでしょうか。
 武里団地は2街区、7街区、9街区がなくなりました。そこに住んでいた元住民にとっては〝故郷喪失〟と同じです。しかし、元住民にとっては、武里団地がどう変わろうと、子供時代にいい思い出を与えてくれた故郷です。

 当時の武里団地の風景は記憶の中にしっかりと刻み込まれています。
 武里団地よ、永遠なれ。

昭和44年(1969)頃の武里団地9―12号棟前の芝生で。後ろ向きの子供たちの姿が見える。1番右端が私です。

 【参考文献】
『わたしたちのかすかべ』(社会科副読本、1972年)
『埼玉県市町村誌』第17巻(春日部市教育委員会、1979年)
春日部市史 第6巻通史編Ⅱ』(1995年)
春日部市商工名鑑』(春日部市商工会議所、1996年)
『学校要覧 平成14年度 小学校1』(春日部市、2002年度)
『学校要覧 平成14年度 小学校2』(春日部市、2002年度)
進士古径「武里団地の家族小規模化にみる高齢化と少子化核家族から多様な家族形態へ―」(『「春日部に生きて来た女性の歴史」研究誌』第2巻、2004年)
原武史『滝山コミューン一九七四』(講談社、2007年、文庫版2010年)
原武史重松清団地の時代』(新潮社、2010年)
『コミュニティーライフ わたしの武里団地』(2019年)
春日部市郷土資料館『1960年の春日部』(2020年)
武里団地のあゆみ』(発行者 春日部市武里図書館団地班、2020年)

団地祭り―武里団地着工60周年記念事業⑩ 講演会―

 講演の終盤に入ります。平成21年(2009)の撮影写真を使いながら、団地商店街(7街区、2街区)にタイムトラベルしました。
 解体前の静けさというか、2街区は寂寥感漂っています。
 すると、ざわざわと人の声が聞こえてきました。祭りに興じる人たちの声です。
 平成21年8月1日(土)と2日(日)に2街区で開催された武里団地名店会主催「第43回武里団地けやき祭り」です。

 ウィキペディアによると、2010年9月までに7街区(2棟)と商店街の退去と2街区(4棟)商店街の団地内移転が行われ、2011年に解体が完了した、とあります。
 つまり「第43回武里団地けやき祭り」は、2街区を主会場とした最後のけやき祭り(団地祭り)という位置づけになります。私は7月25日に元禄(日本蕎麦屋)のおかみさんからそのことを聞かされ、同年8月1日に再訪しました。

解体予定の2街区を会場とした最後の団地祭り。いつからか不明ですが、けやき祭りと改称されました(2009年8月1日、Q街区撮影、以下同じ)

 けやき祭りは第43回と銘打っていたので、2009年から42回(第1回は除く)を引くと1967年、即ち昭和42年(1967)となります。第1回武里団地夏まつりは、大畑小・同小プールの落成を記念して開催されました(「コミュニティーライフ武里団地」所収「武里団地32年のあゆみ」より)。この時の会場は不明です。
 昭和47年(1972)、バス通り(今の「けやき通り」)を歩行者天国「夏まつりちびっこ解放区」とするイベントがあり、そこで併せて団地祭りが開催されるようになります。
 平成21年(2009)8月1日に2街区を訪れた私は何とも不思議な感覚にとらわれながら祭りを眺めました。

 

2―9とけやき祭り会場。テントが張られ、多くの住民が祭りを楽しんでいる

 子供の頃、今の第二白百合幼稚園が空き地だった頃、眺めた祭りの様子。夜店、やぐら、盆踊り、賑やかな人の声。
 恐らく昭和44~46年の3歳から5歳の頃です。9―12の3階の自宅窓の外から会場方面が夜闇の中に明るく浮かび上がり、喧噪が耳に聞こえてきました。
 この9街区での団地まつりですが、会場が変わった可能性があります。
 幼い頃の記憶ですが、確か祭り前日の会場に足を運んだ際、広場の東端(つまり8街区寄り)に木の柱で組まれたやぐらがありました。夜になり、会場へ母親に連れられて出かけました。たくさんの夜店が並び、多くの人出がありました。
 その時の記憶はおぼろげであり、印象として微かに覚えています。
 昭和47年(1972)に第二白百合幼稚園の園舎が建設されると、そこで開催されていた団地祭りは今のけやき通りに会場が移されたものと考えられます。これは先述した通り、昭和47年から会場を「バス通り」(けやき通り)に移して開催したという記述と符合します。

夕闇も近い時刻。けやき祭りの淵源は団地祭り

 通り沿いに夜店がずらりと並んでいました。私の覚えているのは、玩具、綿あめなどを売る店がありました。親にお面(ヒーローもの)や水あめなどを買ってもらった記憶があります。
 その頃の祭りの呼称ですが、私は「団地祭り」と呼んでいました。
 祭り会場がバス通りに移り、通りの街路樹のけやきが成長して、存在感を増すようになり、いつしか祭りの名前も「けやき祭り」と変わったものと推察されます。

 2街区の広場にはステージが仮設され、その両側には名店会の各店舗の名入りの提灯が飾られていました。

団地名店会の祭り提灯

懐かしい商店名が見えます

けやき祭りの仮設ステージ上では様々な余興が行われました。写真は谷原中学校生徒によるソーラン節

 私がステージ上で見たのは谷原中学校生徒によるソーラン節です。はつらつとした振付でダンスを披露しました。谷原中もすでに統廃合されてありません。
 私が大場小を転校しなければ、通学していたであろう中学校でした。お向かいのIさんのお姉さんが谷原中に通っていました。母親を介して「谷原中は遠い」という話を当時聞いていました。私はそれを聞いていずれ自分も谷原中へ通うのだということと「遠い所へ通うのは嫌だな」と感じたことを覚えています。

 最後に指摘しておきたいのは、この団地祭りの神社は〝一体どこの神社なのか〟という点です。このことは講演会場でも疑問として取り上げました。過去には神輿担ぎもあったようであり、その古写真が残されています。
 春日部市郷土資料館学芸員の鬼塚知典さんとも話したのですが、お互いに首をひねるばかりでした。会場の聴衆の皆さんにも「この団地祭りの神社は一体どこなのですか?」と投げかけました。
 民俗学的な立場から言えば、通常、祭りというのは町や村の鎮守(神社)があり、五穀豊穣、防火、無病、学業向上、商売繁盛の祈願や感謝を込めて催されるものです。
 私の転校先の群馬県桐生市祇園祭り(今は桐生八木節まつりの一環)は、美和神社境内(明治期に合祀された)から神輿渡御で牛頭天王(病気を司る仏教神)を乗せて、本町の当番丁(年によって変わる)の御旅所まで運び、そこで神様に〝にぎやかし〟を楽しんでいただきます。にぎやかしは、江戸時代なら鉾巡行、子供手踊り、能楽狂言など、現代ならば鉾の引き違い、八木節踊り、ダンス八木節(ダンスの大会)、繭玉転がし競走(絹織物産地にあやかり)などです。

次第に暗くなるにつれて人出も多くなりました

 ところが、武里団地には〝団地神社〟がありません。原武史の『滝山コミューン1974』の中に公団住宅の中には神社を勧請して祀ったところもあることが1文だけ出てきます。日本史上でムラやマチができると必ず鎮守を祀ります。ムラやマチに精神的支柱になる〝カミ〟を祀り、祭礼を行うというのが古来よりのパターンです。
 ところが、武里団地の夏祭りは神社がないという前提のもとで祭りを実施していたということになります。これは団地に住んでいた子供当時は何の疑問も抱くことなく、受け入れていた事態なのですが、本来はこのことはとてもおかしなことであり、日本史と民俗学の文脈から行っても珍妙だと言えるでしょう。
 当時のおとなたち、団地住民たちもその辺を疑問に感ずることがなかったのでしょうか。本来、〝団地神社〟が造営され、その神様を寿ぎ、喜ばせるため、延いては自身の家内安全・無病息災を祈願・感謝して祭礼は執り行われるはずです。

 いろいろな出身地を持つ昭和41~43年に入居した団地住民は、恐らく幼少期にそれぞれの村や町で祭りを体験しているはずです。ヨーロッパからのアメリカ移民がヨーロッパの生活文化を持ち込み、そのまま踏襲したように〝団地移民〟たちも出身地で経験した祭り(団地祭り)や盆踊り(武里音頭)、年中行事を持ち込みました。 

団地祭りは元武里団地住民たちにとって祭りの原点と言えるでしょう

 あくまで私個人の推論ですが、以上のことから昭和30年代、40年代の高度成長期に日本人の中で「祭り」に対する価値観が大きく変わったとも指摘できます。公団住宅の住民に限ると、祭礼ではなくイベント化したのです。〝神不在〟の団地祭りは、その象徴とも言えるでしょう。
 しかし、私はこの神様がいるのかいないのかよくわからないような在り方がさほど嫌いでもありません。神様の名の下に「是か非か」「黒か白か」と殺伐になるよりも日本人のこの何とも言えない無節操さ(というかそこはかとなさ)が心地よいと思っています。
 以上、理屈はそうなのですが、それでも私にとって団地祭りは、人生最初の祭りの経験であり、何とも懐かしく、郷愁にかられる思い出の対象です。

団地商店街にタイムトラベル―武里団地着工60周年記念事業⑨ 講演会―

 前回まで春日部市の合併と公団住宅の建設、武里団地人口の増加、そして大畑、大場、沼端の3小学校の児童数変遷のグラフを見ながら、武里団地が若い夫婦世帯が入居し、団地で生まれ、育った子供たちによって団地人口、学校児童人口のピークを迎えたという話をしました。
 武里南地区公民館からは「公園と商店街のことを話してほしい」との要望が事前にあったため、最後に写真を使って「団地商店街にタイムトラベル」という趣向で話を進めました。
 講演当日に使った写真のほか、何枚か付け足して掲載したいと思います。過去の記事と一部重複しますが、御寛恕ください。

近隣公園から7街区へ入るまでの小径の入口。右側に保育園を見て、そのまま進みます。在りし日の7街区(左が7―1、右が7-2)が向こうに見えます。この高層2棟は武里団地のシンボルとも言える建物でした(2009年7月25日Q街区撮影)

近隣公園と7街区の間にある小径。9街区からだと、ここを通って7街区に入ります。母親と弟と買い物へ行く際に通りました。奥は近隣公園方向です(2009年7月25日撮影)

小径を出ると、短い階段とスロープがあり、そこを上がると、この写真のところに出ます。左に7―1、右に7―2に挟まれた7街区の空間。左に東武ストア、右にも商店が入っていました(2009年7月25日撮影)

7―2の1階テナントに入っていた「肉のタナカ」

7―2の1階テナントに入っていたベーカリー「プリマーベ」

真ん中のスロープを上がります。7街区2階部分の吹き抜けに出ます。写真でも確認できますが、吹き抜け床のタイルは昭和40年代当時のままであり、刻みの入ったタイルと無地とが市松模様に並び、独特の表面をしていました(2009年7月25日撮影)

セントラル歯科がありました(2009年7月25日撮影)

7街区と2街区をつなぐ歩道橋。歩道橋の下はけやき通り(当時はそう呼んだ記憶がありませんが)。写真でも確認できますが、歩道橋の壁に長細い凹型の刻みがあり、そこから下の通りを眺めたものです(2009年8月1日撮影)

歩道橋を渡ると、2街区の空間。団地商店街です。今見ると、デザインが立体的であり、近未来を想起させる造りとなっていました(2009年7月25日撮影)

左側の2―8になります(2009年7月25日撮影)

2―8の2階にあった丹頂バーバー(2009年8月1日撮影)

講演の折に「SUNRED(サンレッド)」は何の店ですかと尋ねられ、答えられませんでした。どうやらブティックのようです(2009年8月1日撮影)

向かって右側となります。2―5です(2009年7月25日撮影)

屋根から下がるタイプの看板。スミ美容室、理容タグチ、その向こうは名前が入っていません。看板の白は空き店舗を意味します(2009年8月1日撮影)

2―8(左)と2―5(右)をつなぐ歩道橋。歩道橋の真中からは1階へ下りる階段が付いてました。今、見てもとてもユニークなつくりになっていると思いますが、皆さんはどのようにお感じになりますか(2009年7月25日撮影)

2―5の2階を進むと、おづつみ園があり、その向こうにスロープがあります(2009年7月25日撮影)

スロープ(写真右端)となります。ここは2―4(右側)と2―9(左側)に挟まれた広場です。この広場は埋め立てられて嵩上げされてますが、スロープを下りると一旦平になり、さらに短いスロープがあってもう一段下に下がっていました(2009年7月25日撮影)

2―9と2―4の谷間の広場。取り壊し前のため閑散としています(2009年7月25日撮影)

東側から見た2―9(手前)と2―8(奥)、その向こうに7―1(2009年7月25日撮影)

2―4と2―9(奥)の間にある小さい公園。当時もあったような気がするが、記憶がおぼろげ(2009年7月25日撮影)

児童が団地人口6分の1―武里団地着工60周年記念事業⑧ 講演会―

 前3回で大畑、沼端、谷中小の主な創立時の出来事と児童人口を紹介しましたが、講演では児童数の変遷のみ説明しました。
 大畑小(1~3街区)は昭和49年に1538人、大場小(7~9街区)は昭和49年に1681人のピークを迎えます。

昭和48年(1973)4月頃、下校途中の大場小児童たち。9―12と9―13との間は芝生面積を広く取り、小径が東西に走っていた。翌年、大場小は全校児童数1681人となり、ピークを迎える。背景は9―13号棟。洗濯物と布団干しは団地らしい日常風景(Q街区所蔵)

 これは武里団地に入居した若い夫婦世帯が子供を出産し、その2、3年後に再び出産した、その子供層が最多の児童人口を形成したことを示しています。
 昭和49年だけに焦点を当てると、大畑小と大場小の児童人口を足すと3219人となります。ここに谷中小の児童数を足したいところですが、昭和49年の数値が不明です。そこで昭和46年に4、5街区の児童289人が大畑小から谷中小へ移った数値はわかっているので、昭和49年段階で約250人と概算し、3219人に250人を加算します。

 すると大畑・大場・谷中3小学校の武里団地児童は合計3469人になります。

 武里団地の総人口が21699人(昭和50年)ですから、武里団地人口の約6分の1が小学生児童だったということがわかります。多少の誤差はあるかもしれませんが、団地に子供たちがいかに多かったことがわかるかと思います。
 3小学校の児童数3469人に両親2人を掛けると、6938人となります。小学生児童3469人+両親6938人=10407人となります。武里団地人口の約半数が3小学校の児童と両親で占められていたことになります。

 武里団地入居初期の居住者の平均的に多い世代は男性が30代、女性が20代とされています。武里団地の平均的家族像は、男性30代、女性20代、子供が1人もしくは2人の、若い核家族(1世帯3、4人)であったと示せるものと思います。

昭和47年頃の近隣公園。右端がQ街区、左隣りが幼なじみのK君、その左隣りがK君の妹、左端がQ街区の弟、後ろの女性はK君のお母さん。その後ろに家族連れで楽しむ姿が写る。団地居住者の多くは若夫婦と子供たちだった。背景の建物は7―2、6街区(Q街区所蔵)

 その若い核家族世帯がそのまま武里団地に居住し続け、昭和49年にピークを形成したものと言えるでしょう。
 本来であれば、嬰児から5歳、幼稚園・保育園・中学校生徒の人数を足したいところですが、数値を調べていないので、後の課題としたいと思います。

谷中小学校、4、5街区の児童が通学―武里団地着工60周年記念事業⑦ 講演会―

現在は谷中小記念公園となっている(2009年7月25日、Q街区撮影)

 谷中小学校の学区に武里団地4、5街区も含まれていたことを最近になって知りました。
 『学校要覧 平成14年度 小学校2』によると、谷中小学校の学区は、武里団地4、5街区、大畑、大場、千間一丁目、大枝です。谷中小学校の児童たちは中学校に上がる段階で、谷原中学校と中野中学校に通う子に分かれたようです。
 しかし、武里団地に住んでいた当時(昭和43年~昭和52年7月末)の私の中の谷中小学校のイメージは、武里団地の子供ではなく、住宅街の子供が通学する学校というものでした。
 この一部誤った認識は、武里団地で生まれ育った弟が第二白百合幼稚園を卒園して大場小へ入学し、住宅街から通園したクラスメイトが谷中小へ入学して別れたため「住宅街の子は谷中小に通う」と話していたことに起因しています。
 谷中小学校は昭和46年(1971)4月1日、児童数560人、学級数15、教職員18人、市職員5人でスタートしました。初代校長は青木琢也氏です。
 この谷中小の開校によって大畑小に通学していた武里団地4、5街区の児童たちは谷中小に通うようになりました。
 武里団地関連の小学校の系統を時系列で並べると、昭和41年に大畑小が創立し、昭和43年に7~9街区の児童が大場小へ、同46年に4、5街区の児童が谷中小へ、昭和51年に大場小の6街区の児童が沼端小へ移るという流れになります。最終的には大畑小に通学した児童は1~3街区の子供たちということになります。
 谷中小は昭和47年2月12日に初めての開校記念日を迎え、また同日に校章が制定されました。校舎と体育館は同年5月10日に竣工しました。

北側から見た谷中小体育館(2023年10月17日、Q街区撮影)

東側から見た谷中小体育館。私が住んでいた昭和52年には信号はありませんでした(2023年6月22日、Q街区撮影)

 翌年の昭和48年3月5日には校歌が制定されました。
 谷中小学校校歌
      作詞 宮沢章二
      作曲 小山章三
 一、広野に生まれる みどりの風
   今日のよろこび 告げる窓
   望みあかるく 笑顔の花も
   咲くよ 谷中のまなびやに
 二、日毎にあふれる いのちの歌を
   友ようたおう 高らかに
   かおる知恵の実 伸びゆく力
   共に育てて たくましく
 三、この世の花園 われらが作る
   愛のひかりを ひろげつつ
   夢はひとすじ あしたの鳥よ
   飛ぼう 谷中の青空へ

谷中小記念公園の片隅に立つ谷中小校歌の石碑。昭和56年度卒業生の建碑(2023年10月17日、Q街区撮影)

 まず歌枕ですが、全く採用されていません。ウィキペディアによると、作詞を手掛けた宮沢章二(1919―2005)は埼玉県羽生市出身。東京大学文学部美学科卒業。埼玉県立不動岡高校教諭時代に作詞家として活動を開始し、校歌・童謡・合唱曲をつくりました。校歌作詞に関しては埼玉県内中心に300校以上にのぼるとされます。
 国立音楽大学同調会ホームページによると、作曲を手掛けた小山章三は昭和29年に国立音楽大学を卒業。同大学で教官として勤め、平成7年で退官。同大学名誉教授。2017年12月22日に87歳で死去しました。
 谷中小の作詞・作曲者はいずれもプロであるという点が特徴です。そのためか大場小で採用された歌枕の富士、筑波、古利根、武蔵野が取られていません。あるいはこうした歌枕のない歌詞が流行していたのでしょうか。
 大場、大畑小の校歌作詞は初代校長が手掛け、大場、大畑、沼端の作曲は日向雅男氏が手掛けました。大場、大畑、沼端の校歌は人脈的なつながりが感じられますが、谷中小は先の3校と比べ、つくられた経緯が全く異なることがわかります。

 私は子供の頃、谷中小学校の校舎ができる過程を目にしているはずですが、その辺の記憶がはっきりしません。しかし、谷中小ができてからは校門を入ってすぐの幅広の階段を児童たちが上がっていく姿を日常の風景として目にしました。1度くらいは学校敷地内に友人と入った気もするのですが、おぼろげで断言できません。

 この谷中小の校舎は大場、大畑、沼端と異なり、上空から見ると「H」型になっています。東側中央に階段があり、上がると2階部分に玄関があったものと思われます。『学校要覧』記載の間取り図によると、2階部分に1、2年生の教室、3階に3、4年生の教室、4階に5、6年生の教室が確認できるので、登校するとまず2階へという流れになることがわかります。それを子供の時の私が見ていたのでしょう。

 間取り図を見ると、階段下の1階部分には「消防通路」と呼ばれる箇所があります。記憶がおぼろげですが、校庭へ通ずる吹き抜けであったように思います。

 谷中小は校門を入って、すぐ校舎階段があり、その裏側(西側)に校庭がありました。校庭面積は7186平方メートル。これは沼端小の10829平方メートルと比べると3分の2の面積であり、やや狭さを感じます。運動場部分は今は住宅街になっています。
 歴代の校長先生は次の通りです。任期は全て4月1日以降。
 ①青木琢也(昭和46年~)
 ②石田幸吉(昭和48年~)
 ③高橋正(昭和54年~)
 ④大森敏雄(昭和55年~)
 ⑤柿沼要一(昭和57年~)
 ⑥鈴木文雄(昭和59年~)
 ⑦篠崎英治(昭和62年~)
 ⑧辻勝明(平成4年~)
 ⑨篠塚和巳(平成7年~)
 ⑩坂庭昇(平成10年~)
 ⑪出戸義和(平成13年~)
 特徴は在任期間が極めて短いという点です。2代目の石田氏の6年間を除くと、1~3年です。人事異動の事情は外部者には全くわかりませんが、いろいろと交錯した事情があったのだろうと察せられます。
 平成15年3月末に谷中小は廃校となり、大場、沼端小と共に武里西小に統合されます。児童数の変遷をグラフにしたかったのですが、『学校要覧』に児童数の記載がないため、作成できませんでした。平成14年5月1日現在で464人の児童数がいました。

 ということは、創立時の児童数560人と比べて約100人の減少ということで、大場、大畑、沼端とどうも事情が異なるようです。
 現在は校舎がすでに取り壊され、校舎跡地(5988平方メートル)は「谷中小記念公園」(広場)となっています。
 谷中小の痕跡は、体育館と校歌を刻んだ石碑(昭和56年度卒業生寄贈)の2つ。

 体育館は一般の方に利用されています。

 公園西北の木蔭には校歌の石碑が寂しげに立っています。

沼端小学校、慌ただしく開校―武里団地着工60周年記念事業⑥ 講演会―

 沼端小学校のことを紹介したいと思います。

 恥ずかしい話ですが、実は沼端小には行ったことがありません。武里団地に住んでいた当時、沼端小は遠いというイメージが強くあり、ついに行かず仕舞いでした。
 先の講演で武里団地に行った際、沼端小の場所へ行きましたが、校舎はすでに取り壊されてありませんでした。
 以下、春日部市『学校要覧 平成14年度 小学校2』に基づいて記します。
 沼端小は昭和50年(1975)3月24日、春日部市大場124番地1で着工されました。1年後の昭和51年(1976)4月1日に校舎が竣工。学区は武里団地6街区、大場新田、増田新田です。大場小に通学していた6街区の児童804人と武里小の11人の計815人が沼端小へ移りました。
 私個人の体験の中では3年生の時のクラスメイトが4年生に進級する際に6街区の子供たちが一斉に沼端小へ通うようになりました。
 その時の私は「沼端小は遠い」と聞いていたので(6街区から通うのは大変だな)と思ったことを覚えています。
 沼端小は校舎が完成して一週間後の4月8日には始業式、同9日には入学式を執り行い、同28日に新校舎落成記念式典を行うなど目まぐるしく行事をこなしています。
 6月14日に「沼端小よい子のきまり」を制定し、7月18日にプールが竣工、10月1日に校章、11月15日に開校記念日が制定されます。
 この開校記念日は、大畑小ОBのKCNさんがコメントで指摘されたように大畑小と似た事情で埼玉県民の日(11月14日)の翌日に置いて連休とするためだったのでしょう。つまり県民の日を挟んで大畑小は前日13日、沼端小は翌日の15日です。
 昭和52年(1977)5月13日に校門が設置されています。体育館の竣工は何と昭和53年(1978)2月6日になってからです。それまでは専ら校庭で体育の授業を実施していたのでしょう。
 以上の流れからは、武里団地に子供が多く、学校不足から校舎を急ごしらえし、何ともバタバタと慌ただしく学校を整備したことがわかります。当時の校長はじめ先生方の大変さが推察されます。
 校歌は昭和53年3月16日に制定されます。開校して2年後です。ということは私の同級生たちは4年と5年で校歌を歌うことがなく、6年生になって初めて校歌を歌ったことになります。
 沼端小校歌
      作詞 飯田豊
      作曲 日向雅男
 一、緑の風と太陽の
   光りみなぎる この窓べ
   ひとみ さやかに
   集える われら
   たすけあう 心豊かに
   ああ 学びゆく日の
   夢も 楽しい 沼端小
 二、黄金の波に 武蔵野の
   恵みあふれる 校庭よ
   ちから たくまし
   きたえる われら
   みがきあう 心明るく
   ああ 育ちゆく日の
   明日も 楽しい 沼端小
 三、校旗にしるす 三つの輪の
   誓いもかたく 新世紀
   日ざし仲よく
   進もう われら
   足音も ひびき高らに
   ああ 栄えゆく日の
   希望 楽しい 沼端小
 校歌の大きな特色は、まず作詞・作曲に沼端小の校長先生が関与していないことです。大場も大畑も初代校長(大場は根本禧弌、大畑は森又三)が作詞に携わっていますが、沼端小の初代校長は作詞を手掛けませんでした。
 歌詞の内容ですが、歌枕(名所)が「武蔵野」1カ所だけです。本来なら校歌に歌枕が盛り込まれることにより、地域の名所を覚え、また地域に親しみを持たせる教育効果が期待できます。
 作曲は大場、大畑、沼端も日向雅男さんが手掛けています。これは校歌の作曲と言えば日向さんという流れがあったのでしょう。沼端小の歴代校長は次の通りです。
 ①斉藤暹(昭和51年~)
 ②遠藤正康(昭和56年~)
 ③卯木郁郎(昭和61年~)
 ④安野利栄(昭和63年~)
 ⑤新井武揚(平成4年~)
 ⑥八尾實(平成8年~)
 ⑦野中明(平成12年~)
 特色は在任期間が大場・大畑小の校長より比較的長いことです。初代、2代目は5年間、4代目~6代目は4年間の在任です。 
 さて例のように春日部市『学校要覧 平成14年度 小学校2』に基づいて児童数の変遷をグラフに表しました。 

 沼端小の児童数変遷グラフの特色は、大場、大畑小と同様に急増漸減の特徴を示しています。昭和53年に1123人に急増しますが、これは学区再編により武里小283人が沼端小に編入したことによるものです。
 しかし、児童数は減少の一途をたどります。

 昭和56年に1000人を切り、平成元年に450人に半減、さらに平成9年に222人と半減し、統廃合の前年平成14年には193人にまで数を減らします。単純に6学年で割って1学年1クラス(30人程度)が成立するという状況でした。
 これは沼端小児童の大部分を占めていた6街区の子供たちの数が減少したためと推察されます。武里団地人口に子供の占める割合変化がそのまま投映されています。