私が武里団地に住んでいた期間内の昭和40年代後半から同52年までの掛かりつけのお医者さんは菊池内科医院でした。風邪をひくと、しんどくてだるい体を引きずるように、母親に連れられて行ったものでした。
私の記憶の中では先生は男性です。こう何と言いますか、眼がぱっちりと外国人のように大きく濃く、髪は短い(おぼろげだが)、どちからというとやや日本人離れした風貌の、声のはっきりとした快活そうな先生でした。白衣を来た優しい先生の印象です。今、思い返すと年齢は30代だったのでしょうか。
ここで処方して出される飲み薬は色のついた、トロリとした液体の薬でした。味は甘かったような気がします。母親にスプーンで飲まされた記憶があります。
私が小学1、2年生のころだから昭和48、49年(1973、1974)。本当におぼろげですが、菊池内科だったのが、看板に「小児科」の文字が加わったことを覚えています。
ある日、やはり私が風邪をひいた時、隣の家のIさんのおばさん(別稿「締め出し」の時に助けてもらった)に自転車の後ろに乗せてもらい、菊池医院に連れて行ってもらったことがありました。どうしてそうなったのか理由は覚えていません。
それでも母親が私を医者に連れて行けない理由(例えば、赤ん坊の末弟の育児とか)があるから、Iさんに頼んだはずです。こうしたことから、母親とIさんのおばさんとは隣同士で本当によく互いに助け合い、暮らしていたんだなと実感します。
そして昭和49年より前には菊池産婦人科医院が写真の駐車場スペース(現在の菊池内科の斜め前)にできました。2階建ての産婦人科病棟です。
この産婦人科の前(南側、大場小との間)にはため池(周縁が長方形)がありました。恐らく灌漑用のため池でしょう。ザリガニがよく捕れるので、子どもたちがよく池の周りで割りばし先の糸に、駄菓子屋で買ったイカを括り付けて垂らしていました。
菊池内科医院周辺は田んぼの風景でした。
9―15の前の細い農道(当時は未舗装、自動車は入れない)を入り、大場小(現、武里西小)校庭に沿って(雑草が生い茂ってました)北へ100メートルほど行くと右側に菊池内科医院が昔と同じ場所に今もありますが、その途中の道の東側は全て水田と畦道でした。今は道も拡幅・舗装され、水田も埋め立てられ、全くの住宅街となりました。
私は今も菊池内科医院の近くの水田風景をありありと目に浮かべることができます。私にとってのふる里武里団地とは一歩団地の外に出ると田畑や森の広がる武蔵野の風景とワンセットになっているものでした。
菊池産婦人科医院には母が一番下の弟(3人兄弟の末っ子)を出産するため、昭和49年5月末頃に入院しました。弟は同年6月1日に無事に産声をあげました。
私と末弟とは8歳違いです。真ん中の弟が3歳違い。両親はどうしても娘がほしくて、期待をかけて頑張ったのでしょう。しかし、生れてみると、しっかりと男の子。
「女の子だったら」という親の願望を反映してなのか、末弟はまだ幼稚園にも上がらぬ3、4歳の頃、女の子のように髪が長めで、よその大人からよく女の子に間違えられていました。しかし、寅年のさがなのか、その後はやんちゃな男の子に育ちました。
母の出産後、菊池産婦人科の母のもとへ父と弟と3人で見舞いに行きました。ベッドの傍らに私(7歳)が次弟(4歳)と立っていますと、父が「赤ん坊の名前だけど、『あきら』と『〇〇〇〇』のどちらがいい?」と私たちに尋ねるので、「〇〇〇〇」と4文字名前を選びました。3文字の方は何か気取った感じで、気恥ずかしい気がしたからです。次弟も4文字名前に賛同しました。
ほどなく母と赤ん坊は退院し、9-12の我が家に帰ってきました。
白壁には「〇〇(漢字だと2文字)」と紙に書かれた赤ん坊の名前がしばらく貼り付けられていました。命名されるまでの一週間くらいは「赤ちゃん」と弟のことを呼んでましたが、それ以降は上の2文字で「〇〇ちゃん」と呼ぶようになりました。
大人になってから末弟にこの名前選びの時の話をすると「あきらの方がよかったのに」と言います。今さらそんなこと言われても…。