ここは武里団地9街区

丙午生まれの昭和回想

団地のクリスマス

 師走に入り、クリスマスの時期が近づいてきました。

 昭和43年から52年に武里団地に住んでいた子供の頃のクリスマスを迎える気持ちは、うきうきした、待ち遠しい気持ちでクリスマスイブを迎えたものでした。
 新聞紙(当時、新聞を読むページはテレビ欄のみでした)に折りこみ広告が入ってきます。小2か小3の頃でしょうか。カラー刷りの広告にはおもちゃのオンパレード。その中にラジコンカーがありました。(ほしいな)と無性に思い、母親にもねだり、広告を捨てずに取っておいたものです。
 クリスマスツリーを飾りつけます。幼稚園頃のクリスマスツリーは本物の1メートルぐらいの樹木(モミの木?)を使いました。そこに星、綿、イルミネーションを飾りつけ、点灯させます。
 本物の樹木だったので、日数の経過と共に針葉樹の葉が下に落ちてしまいます。それを片付けるのが大変だった(母親が掃除したと思いますが)ような気がします。その後、自然のツリーは人工のツリーに取って代わられました。
 クリスマスイブが近づくと、母親と弟と一緒に団地商店街の一心堂へ行きました。赤と黒のツートンのフェアレディ―Zのラジコンカーを買ってもらいました。それは直進と左折のみのものでしたが、当時はそれでもうれしくてラジコンカーを9街区の我が家の中を夢中かえって走らせたものです。
 あとは何と言っても楽しみなのがクリスマスケーキです。母親が店(どこか忘れました、不二家があったような?)に注文し、当日にケーキを取りに行きます。
 サンタクロースの存在は必ずいるのだとは思っていませんでした。団地には煙突がなかったので(入って来られない)と思っていましたし、プレゼントは目の前で親に買ってもらっていたので、余計にそうでした。
 イブの夜が明けると、枕元にサンタクロースの赤い長靴が置いてありました。中に御菓子が詰めてありました。多分、東武ストアで買ったのでしょう。同じものが弟の枕元にも置かれ、とてもうれしかったことを覚えています。
 子供の頃は純粋に楽しめたクリスマスでしたが、大人になると、ヘソが曲がってきます。(クリスチャンでもないのになぜクリスマスを祝うのだろう)と考え、バレンタインもホワイトデーも商業戦略と冷めてしまいました。
 しかし、今は年を取って考え方も一巡して、この日本人の不思議な有りようを寛容的に受け止められるようになりました。
 以上が団地のクリスマスですが、こう書くと今現在のそれとそう大して変わりません。少年期の私が置かれた環境を文化論的に捉えると、武里団地を含む公団住宅には生活様式の〝洋の部分〟がかなり多くを占めました。私たち両親世代(1950年代に少年少女期)もそこに憧れ、入居した世帯も少なくなかったでしょう。

 ちゃぶ台でなく、テーブルを囲み(冬は炬燵ですが)、畳の上に絨毯を敷き、食卓には米食のほかパン食も載るようになりました。きっとクリスマスもその延長上にあるのだと思います。
 私たち50歳代は昭和40年代、50年代に少年・少女期を迎えましたが、公団住宅の生活は戦争の影を全く感じさせませんでした。敗戦からたった20数年しか経っていないのに、痕跡が何もない。私たちの周囲にはコンクリと芝生と公園がありましたが、肥溜めの臭い、囲炉裏、畑作業の手伝いはありませんでした。

 そうした点から考えてみると団地の生活はある意味とてもシュールでした。そして〝洋〟に対して心理的に無抵抗でした。
 日本でクリスマスを祝う習慣自体は戦前からあって長いものですが、私たち両親世代が高度成長期を背景に洋の生活様式にぐっと傾いた時期にクリスマスが一層大衆化し、人口の多い私たち子供世代が歓迎的に享受し、関連マーケットが大きく形成されたのでしょう。そうした歴史上の端境期のクリスマスであったとも言えましょう。


 それでも子供の頃は純粋にただ待ち遠しかったクリスマス。両親の保護の下、あどけなく暮らした懐かしい団地の日々。お年玉のもらえる正月が間近に控えていたし、学校は休み。子供には本当に天国のシーズンでした。