私がこの記憶をかろうじて覚えているのは学校名が印象的だったからです。子供だった私には「リンゴ小」と刷り込まれました。
以下、御紹介します。
春日部市立大場小学校体育館でのおぼろげな記憶です。
時期はいつだったのか全く覚えていません。条件的に時期を絞ると小学校3年生(昭和50年度、1975年度)だったのではないかと思います。
今も武里西小に残る当時の体育館内に春日部市内の小学校の児童が一堂に集まったことがありました。私が微かに覚えている風景は体育館内の床に所狭しと学校別に列を作って体育座りしている児童たちです。1学校30~40人ぐらいいたような気がします。
恐らく近くの大畑小学校、谷中小学校も来ていたのだろうと思います。沼端小学校の児童がいた記憶がないので、小学校3年生(2年生より記憶がしっかりしているので)と時期を推定しました。
児童の代表が立ち上がり、学校名と簡単な自己紹介をしました。こうした場合、あらかじめ児童代表が決められていたはずであり、次々と学校名を述べ、挨拶しました。
来校した学校の中で、私が鮮明に学校名を覚えているのは「備後(びんご)小学校」です。備後小の児童が立ち上がり、代表の男子児童が「僕たちは備後小学校です」と言いました。

なぜ私が「備後小」だけ覚えているのか。その理由は子供らしい単純なものでした。校名が「リンゴ」に似ているからでした。私の耳には備後小ではなく、「リンゴ小」に近い音に聞こえたのでした。
(えっ、リンゴ?)
あの集まりはきっと交流会のようなものだったのだと思われます。交流といっても、ゲームやフリートークををしたわけではありません(その記憶はない)。
となると、合唱ぐらいしかほかにありません。来校した児童は、恐らく課題曲や校歌の合唱をしたのではないかと思われます。これも推測の域を出ませんが。
備後小ホームページによると、備後小は昭和47年4月1日に開校しました。校歌は昭和49年3月1日に制定されたとのことです。なので私の記憶の推定時期、昭和50年度には校歌が制定されていたはずなので、校歌斉唱したのかなという気もします。
備後小の「備後」の由来とはどのようなものでしょうか。そもそも武蔵国に備後国(広島県の一部)とはとても不思議です。
2009年4月1日付、読売新聞地域版「地名を歩く」(ブログ「All Things Must Pass 森羅万象~歩く印象派」の記事画像を参照)に伝承が紹介されています。武里駅の北西1キロの場所に勝林寺があり、今も本堂に1体の観音座像が安置されているそうです。
鎌倉時代初期の建暦元年(1211)に観音座像が利根川中洲で見つかり、旅の僧侶が像を見て「これは備後の寺に安置されていたが、兵乱のため像を船に積んで東国へ逃げた。多くの船が難破する中、像を載せた船は無事だった。人々が像を拝もうとすると、どこか飛び去った。その像だ」と語ったとのことです。
ちなみに利根川は、江戸初期に幕府による東遷工事で流路(銚子方面)が変わる前は江戸湾(東京湾)に流れ込んでいました。上記の伝承以降、元々の地名の「須賀」に「備後」を冠して「備後須賀」となり、江戸時代には備後の方を採用して備後村になったといいます。真偽のほどはよくわかりません。地名は大方が地形由来や災害由来、寺社由来が多いものですが、上記の伝承は少し首をひねらざるを得ません。
それはともかく、備後小の名前のお陰で、とうに消え去ったはずの記憶が私の頭の片隅にかろうじて残りました。
当時の私の感情を敢えて言葉にすると、春日部市内に自分の知らない学校があり、そこにも同じように子供たちがいて、生活を送っていることに新鮮な気持ちを抱いたものです。大人になった今も遠方を旅すると、似た感覚に陥ることがあります。子供の頃と大人の今も感心のありどころが大して変わらないのだなと思う次第です。