ここは武里団地9街区

丙午生まれの昭和回想

武里団地の言葉―その1―

 私は普通に日常生活を送る中で、突如と言ってもいいのですが、不意に不思議だなと思う感覚に襲われることがあります。
 目の前の妻に対し、ふいに(えっ、この人、なんで自分と一緒にいるのだろう)と、その感覚だけが剥離するかのように頭をもたげてくるのです。
 そうした不思議のタネはいろいろとあるのですが、その1つに(なぜ私はこの日本語を話しているのか)と不思議に思うことが時々あります。
 若い頃はさほど感じませんでしたが、30代から江戸時代に書かれた古文書(当時の文章日本語)を読むようになり、50代のこんにち、余計に強く感じるようになりました。その文章の古今の違いといったら全く別物です。
 例えば、江戸時代の青森と鹿児島の人は会話しても互いの方言がわからず、ちんぷんかんぷんだったはずです。若い頃に旅行先で津軽方言を現地の人に話してもらったことがありましたが、関東の人間である私にはほぼ外国語と同じでした。よく知られる「どさ?」「ゆさ」の会話は、鹿児島の人には全くわからないでしょう。
 古文書(願い書き、一札、議定など)では御家流(草書の一種)の書体で、「~ニ而(にて)候(そうろう)」「~奉存候(ぞんじたてまつりそうろう)」などと文章を書きました。この書き方は青森から鹿児島まで全国共通でしたので、文書の上では意思疎通が可能だったのです。
 この江戸期を通しての文章上の一種の共通語化(と言っても現在の文章日本語とは違います)が、明治日本の近代化を早める一因だったとも言えます。日本のお役所というところは古代からずっと文書主義であり、江戸期も幕府から末端組織の村役人まで文書主義でしたが、これは今の官庁・自治体の役所のそれに連綿とつながっています。
 江戸期は言葉上では共通語というものがなく、あるのは地域の方言がそこここにあるという状態でした。作家の井上ひさしさんの『国語元年』という戯曲がありますが、あの中で描かれる多彩な方言の世界です。そして身分によっても言葉が違いました。

 国許から江戸へ参勤交代で出てきた武士は、藩が違うと言葉が違うわけで、きっと意思疎通に苦労したと思いますが、文章上では共通していたのと、武士身分の共通の教養文化として漢籍(いわゆる読み下し)・能楽の謡(うたい)などがあったから、そうした共有文化を駆使した表現法で意思疎通を図ったのではないでしょうか。

 今、振り返ると昭和40年代から50年代にかけて武里団地で話された言語は今でいう共通語と言ってもいいでしょう。東京と大して変わらなかったと思います。私の母は東京出身なので、当時の保谷市(現、西東京市)の母の実家に里帰りした時に東京育ちの従兄弟たちと会話しても言語上で意味不明な場面に当たることがありませんでした。

 ちなみに私の母方の祖父は茨城県水戸の出身でしたが、子供の頃、福島県白河に転校しました。小学校5年生ぐらいでしたが、言葉が違うと同級生たちに笑われ、登校しなくなったそうです。だから祖父は生前「僕は尋常小学校中退だ」(恐らく形の上では卒業したのでしょう)ときれいな(?)共通語で私に話してくれたことがありました。

 昭和52年7月、私は春日部市立大場小学校5年の時、群馬県桐生市立西小学校に転校しました。一種のカルチャーショックを体験します。同じ教室の児童たちの話す言語が自分のものと若干違うことにすぐに気づかされました。
 方言です。方言と言っても東京で多く話される共通語に対して方言という言い方で特定地域偏在の言葉として位置付けられてしまいますが、そこで生まれ育った彼らにすればそれが唯一の共通語の訳です。
 「帰ろう」は「帰(けえ)るべえ」
 「そうでしょう?」は「そうだんべえ?」
 「雨ばかり降ってる」は「雨ばい降ってるんな」

 「彼は来(こ)ない」は「彼は来(き)ない」
 転校直後、私は同級生たちに「なんで〝べえ〟って付けるの?」と何度か尋ねて、困ったような表情をされたことがその度にありました。幼児期から近くの親が、友人がそう話していれば、方言を使いこなし、それが当然のように口をついて出てきます。
 私は親が共通語を話していたので、共通語しか知りませんでした。当時は共通語を話しているという意識など持っていません。大場小学校の教室で先生や児童が話していた言語も癖(?)のないきれいな共通語でした。

 春日部市の方言というのがきっとあるのだろうと思いますが、極めて人工的な移民ムラであった武里団地には方言がなかったような気がします。私たちの親世代がそれぞれの出身地の方言を使ったら、それこそ国語元年の世界と化してチンプンカンプン。
 私の父親は群馬出身ですが、武里団地に住んでいた頃は方言を使いませんでした。私ら子供を連れて群馬県桐生市へ里帰りすると、方言まるだしで「そぉだんべ」と水を得た魚のように会話をしていました。そばでそれを見た子供の私は、父親がまるで違う人であるかのような錯覚に陥ったことがありました。

 昭和40、50年代の武里団地に住んでいた子供たちの両親世代が出身地の方言をてんでに使ったら、きっと意思疎通が江戸時代ほどではなかったでしょうが、円滑には行かなかったでしょう。

 だから私はこの共通語を話しているのだなと、暫定的な結論ですが、そう思ってもみるわけです。